自宅のスピーカーをJBLのユニットを使ったシステムに決めたところまでお話ししましたね。スピーカーに搭載するチャンネルデバイダーは、(株)NF回路設計ブロックに特注しました。当時マルチアンプシステムを組む人はそう大勢おらず、チャンネルデバイダーもあまり市場で見ることのなかった時代です。
そのマルチシステムをドライブしたパワーアンプについてお話ししましょう。最初はソニーのTA-1120(1965年発売)というプリメインアンプを使っていたのですが、その後、パワーアンプ部を同社のTA-3120に変更し、プリアンプは、TA-1120のプリ部とパワー部を分けて使った2チャンネル・マルチ・アンプ・システムで、モノラル・パワーアンプとしてTA-3120を2台追加して使用したわけです。
私が独立して録音の仕事を始めた1968年頃、つまり前述(第23回)の、自宅のスピーカーを組んだ頃は、アンプが真空管からトランジスタに世代交代した時期でもありました。マッキントッシュは昔からずっと憧れていたブランドでしたが、当時の私にはとても買える値段ではありませんでしたし、マッキントッシュはその頃まだ真空管アンプのままでした。ですから、マッキントッシュのトランジスターアンプが出た時は必ずや使おうと心に決めていました。
ちょうどその頃、音楽之友社の主催で、私と一緒にアメリカのオーディオメーカーを巡る旅、という企画が持ち上がり、その下見ととして、当時の音楽之友社出版部長の中曽根松衛さんと、その後社長になった目黒淳さんと私の3人で、1968年に下見をしにアメリカに赴きました。
当時の日本人は「真似ばかりする」という評判から、オーディオショウなどでも日本人オフ・リミッツというブースも多くあったくらいだったので、オーディオメーカーを訪ねて、工場を見学するためのは大変でしたね。しかし、交渉がうまくいき、第1回目が1969年に行われてから、以降毎年、このアメリカ・オーディオメーカー・ツアーが行われるようになりました。
訪問したメーカーは、西海岸ではアルテック・ランシング、JBL、SAEなど、中部ではシュアー、エレクトロボイス、東海岸のマッキントッシュ、エンパイア、AR、ボーズなどだったと記憶します。
私が夢にまで見たマッキントッシュでは、社長のフランク・マッキントッシュさんと副社長のゴードン・ガウさんの2人にお会いしました。中でもゴードン・ガウさんとは妙に気が合いましたね。日本人に対する警戒感の強かった時代に、マッキントッシュはもっともオープンに接してくれましたし、盛大な歓迎パーティを催してくれました。
翌年からの本番のツアーでも、参加者20人余りの全員を招待して、夕食会を開いてくれたのは、マッキントッシュだけでしたね。ほかのメーカーでは工場は見せてくれはしましたが、特に、こういう懇親会をもってくれた会社というのはありませんでした。そこが、ゴードン・ガウさんの素晴らしい人柄故だと思います。
ロケハンに行った時におもしろいエピソードがあります。ガウさんに、有名な「サイズ11」といわれるローストビーフを初めてご馳走になりました。何が11なのかはよく分かりませんが、横に置かれたグラスの高さと同じ厚みのローストビーフで、すごいボリュームだったのを覚えています。
ガウさんはがっちりした体型ですが、背は僕より小さいくらいです。その彼が、気がつくとその肉をペロッとたいらげているのでした!私はというと、まだ、肉の形が殆ど変わっていないという状態で、食べても食べても減らないほど大きいのです。ガウさんは、この健啖ぶりが示すように豪放で快活な人物でした。そのレストランでも、知り合いが顔を見つけるのではなく、遠くから、その声を聞いて席へ会いに来るというほど大きな声なのでした。
私たちは、その後会うたびに、オーディオや音楽の話に熱中し、大いに人生を語り合いました。このツアーを重ねるごとに親交が深まりましたが、私の人生でこんなに気の合う外国人に会ったのは初めてで、先頃、マッキントッシュ社から出た本にも、私の写真とともに同社と私との親交が詳しく載っています。彼の死までの25年間、互いに数少ない親友と呼び合える貴重な間柄になったのは珍しいことでした。
以下、第26回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)