家庭でも携帯電話で音楽を楽しむ人が増えたといいます。そして携帯デジタルプレーヤーをつなぐドック系オーディオシステムですら、こだわりの世界となっているといいます。これには「来るところまで来た」と正直思いました。つまり、携帯で聴かれている音楽は、そのクオリティでも十分ということなのでしょう。もしも私がその音楽の制作に携わっているとしたら、録音の時にスコアから外す楽器が多くあると思います。携帯で聴くのなら必要ない、あるいはもっと効果的なアレンジメントが出来そうですからね、メロディーラインにリズムが着く程度、といったら言い過ぎでしょうか...。音楽作品の隅々まで聞きこんで感動するというオーディオの世界とは違うものですね。
ダウンロードとかリッピングとかいう言葉が日常的になるに従って、その違いというものを認識する人がいなくなることが怖いです。レコード、パッケージメディアというものは、前にもお話ししましたが、作品として完成させるものです。それがパッケージメディア離れや、制作費負担の問題で、質の高い音楽の制作が難しくなってきているという現実がありますね。つまり作品が無くなる可能性もあるということでしょう。極端なことをいえば、まともな音楽として残るのは、演奏会か、メディアでいえばライブ盤しか残らないかも知れません。作品化が無ければ、制作者の情熱が沸きません。単なる記録録音を録ればいいのです。後日CD化するなり、適当なメディアで流せばいいのです。多分、制作の仕事はそうなるのだと思います。これはシリアスミュージックのクラシックでも同じですね。もしかしたら、携帯でマーラーを聴く時代がくるかもしれない。ちゃんと聞こえれば良いですけど、スコアから外れる楽器も多いでしょうし、あのグランカッサを聴こうったって無理です。ファゴットやコントラファゴットも聞こえない。いまの話はあくまでも仮説ですけど、来て欲しくない現実ですね。
アナログLPでは、ジャケット写真を眺め、ライナーを読んで音を聴くといった、一連の作品を楽しむ喜びがありました。LPは大体片面約20分、両面で約40分の演奏時間を持ちますが、中にはその全曲のスコアが入ったものまでありました。これはいま考えると凄いことですし、音楽ファンにはたまらない魅力だったのです。これはいま主流のCDでもとても叶わないことでしょう。こうした、作品として貴重な情報がCD時代になって消え始めました。
たとえば、ライナーノート。かつては筆者が気合いを入れて執筆していたと思います。だからこれにはデータ、資料として、大変貴重な原稿が沢山ありました。ところがCDになると、スペース等の制約があり、あまり大量に書くことができなくなりました。その結果、はしょって演奏者のこと、曲のこと、制作のことなど短くまとめたものが多くなりました。詰め込もうとすると、字が小さくなり、もう私のような老眼には読めないものになっています。もうパッケージメディアとして基本的なクオリティは落ちたといえます。
データになるとさらにその傾向は著しくなります。基本的な曲目、演奏者、作曲者、作詞者等のデータは伝わるものの、その先は無に等しくなります。もし何かを見るにしても、携帯で見る、あるいはPCを立ち上げて見るわけで、その時点で、LP時代から比べて格段に情報量が落ちてしまうわけです。
音楽に対面して聞き込む「趣味のオーディオ」と、いつでもどこでも簡便に聴くことのできる「道具としてのオーディオ」を、いま改めて分けて考える必要がある、と思っています。その場合、趣味のオーディオがPC業界にすり寄ってはいけないと考えています。PCは道具としては認めますが、それよりなにより、音楽を聴くためのオーディオ装置を、これまでにもましてしっかりした、風格のある製品を作り続けていって欲しいと、切にレコード、オーディオメーカーさんにはお願いしたいわけです。それと、そのパッケージメディアという作品を質の高い音で体験できる機会を、私も含めて、積極的に作っていかなければいけないですね。
以下、第40回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)