公開日 2017/03/10 10:22
IEEEマイルストーンに認定
70年代から自動運転を見据えていたホンダ“世界初のカーナビ”。生みの親が誕生の背景を振り返る
会田肇
1981年にホンダが世界初の地図型カーナビゲーションとして商品化した「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」が、IEEEマイルストーン(アイトリプルイー マイルストーン)に認定。その記念式典が去る3月2日、ホンダ青山本社ビルで行われ、IEEE会長 カレン・バートルソン氏から銘板が贈呈された。このジャイロケータ、“生みの親”である田上勝俊氏によれば、現在のトレンドである自動運転を1970年代当時からすでに見据えて開発していたのだという。
IEEEマイルストーンは、電気、電子、通信といった分野における歴史的偉業を認定する賞で、開発してから25年以上が経過して世の中で高く評価されていることが必要条件となっている。創設は1983年で、2017年2月日までに「アポロ月着陸船」「東海道新幹線」「黒部川第四発電所」など174件が認定済み。自動車産業界では意外なことに「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」が初認定となるのだという。
その「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」は、GPSがなかった時代にクルマの移動方向を検知できる「ガスレートジャイロ」を採用した方向センサーを世界で初めて自動車用に実用化。走行距離センサーやマイクロコンピューターなどの組み合わせにより、移動方向と移動量を検出して現在位置を計算する。透過型の地図シートをセットしたブラウン管に現在位置と方位、走行軌跡を表示することで、進むべき経路を容易に選べる。
今回の認定では、ホンダが「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」を開発したことにより、地図型自動車用ナビゲーションシステムが世界中に普及し、ナビゲーションシステムの世界標準を築いたという功績が認められたというわけだ。会場にはその“生みの親”で当時のホンダの電装開発責任者であった田上勝俊氏も出席。ジャイロケータ誕生までの話を伺った。
田上氏は、「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」が開発された1970年代は「ホンダにとってまさに成功と危機感が交錯する時代だった」と振り返る。
当時、アメリカではかつてない厳しい排気ガス規制を定めたマスキー法案が施行予定だったが、ここでホンダはCVCCで世界に先駆けて基準値をクリアして世界中に存在感を示すことに成功した。
その一方で「ホンダはメカニカルな機構で動作するCVCCに全精力を傾けていたため、カーエレクトロニクスの分野では後れを取ることとなってしまった」(田上氏)のだという。田上氏が四輪の電装開発トップに任ぜられたのはそんな時期だった。
「CVCCで世界に“技術のホンダ”を示した後だけに、電装分野でも何としても勝たなければならない。カーエレクトロニクスで後塵を拝していたのはもの凄いプレッシャーだった」(田上氏)。
そんな田上氏がまず考えたのが、「ホンダとして同じ道を追いかけるのではなく、そこで一線を画したい」ということ。そんな中で念頭に置いたのが最終ゴールとしての“自動運転”だった。「目的地をインプットしたら自動的に目的地まで連れてってくれる。そんな夢を描いていた」(田上氏)のだ。
とはいえ、現在でもハードルが高い自動運転を当時の技術で実現できるはずもない。まずは実現できるところから始めようと、燃料噴射技術であるPGM-FIやアンチロックブレーキシステムなどで、当初はナビゲーションを開発するという発想はなかったのだという。自車位置測位に使った「ジャイロケータ」の基本技術となるガスレートジャイロも、最初はサスペンションに使うつもりで開発がスタートし、そこからナビゲーションへの応用へと発展したものだったようだ。
もっと手軽なものはないかと探すと、ミサイルなどの標的として使っていたターゲットプレーンに搭載していたガスレートジャイロに行き着く。部品点数も8点しかない。ところが「実際に使ってみると精度が低過ぎて、とても使い物にはならない」(田上氏)ことがわかる。そんな中、開発リーム内から「コース誘導なら使える」との提案があり、ここからカーナビゲーションへの展開がスタートし始めたというわけだ。
開発は困難を極めたが、それでも「協力会社の知恵があったからこそ完成にこぎ着けた」(田上氏)というほど、「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」には多くのサプライヤーメーカーが関わってくれている。
たとえば地図。今はデジタルマップが当たり前だが、当時は紙地図しかない時代。昭文社の協力により紙地図で使われていたものをフィルム化して使うこととなった。地図上にマーキングして消せる専用ペンは三菱鉛筆が担当。ブラウン管の上に差し込んだフィルム式地図上にペンでマーキングして使用した。
しかし、ジャイロで発生する“ドリフト現象”が発生。試行錯誤を繰り返し、その解決策として必要になったのが真空技術だった。ヘリウムガスの純度を高めることでガスレートジャイロの安定性を高め、そのためにランプメーカーの持つ高い真空技術が欠かせなかった。ここで「白羽の矢が立ったのがランプメーカーであるスタンレー電気」(田上氏)だった。
それでもジャイロである以上、“ドリフト”現象は完全には解消できない。真っ直ぐ行こうと思ってもドンドンずれていくため、この補正をすることが必須だった。
信号待ちをしたとき、交差点と地図を照らし合わせ、ここでずれているとわかったらフィルムの地図を動かしてズレを修正する。つまり、“手動マップマッチング”によって人間が補正を加えていたのだ。“自動運転”を目指したものの、当初はまさに人間と機械が手を携える、今から思えば微笑ましい光景が繰り広げられていたのだ。
その後、地図データはデジタル化されるが、ホンダはCD-ROMにデジタルマップを収録する特許を取得。広範な利用を期待してその利用についてはオープンとした。その甲斐もあって、デジタルマップは急速に普及していったのだ。
今でこそメモリーナビが増えてメディアそのものへの存在を感じられなくなっているが、ここまでナビゲーションが発展できたのもこうした先人たちの配慮があったからこそ実現できたものなのだ。
IEEEマイルストーンは、電気、電子、通信といった分野における歴史的偉業を認定する賞で、開発してから25年以上が経過して世の中で高く評価されていることが必要条件となっている。創設は1983年で、2017年2月日までに「アポロ月着陸船」「東海道新幹線」「黒部川第四発電所」など174件が認定済み。自動車産業界では意外なことに「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」が初認定となるのだという。
その「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」は、GPSがなかった時代にクルマの移動方向を検知できる「ガスレートジャイロ」を採用した方向センサーを世界で初めて自動車用に実用化。走行距離センサーやマイクロコンピューターなどの組み合わせにより、移動方向と移動量を検出して現在位置を計算する。透過型の地図シートをセットしたブラウン管に現在位置と方位、走行軌跡を表示することで、進むべき経路を容易に選べる。
今回の認定では、ホンダが「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」を開発したことにより、地図型自動車用ナビゲーションシステムが世界中に普及し、ナビゲーションシステムの世界標準を築いたという功績が認められたというわけだ。会場にはその“生みの親”で当時のホンダの電装開発責任者であった田上勝俊氏も出席。ジャイロケータ誕生までの話を伺った。
田上氏は、「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」が開発された1970年代は「ホンダにとってまさに成功と危機感が交錯する時代だった」と振り返る。
当時、アメリカではかつてない厳しい排気ガス規制を定めたマスキー法案が施行予定だったが、ここでホンダはCVCCで世界に先駆けて基準値をクリアして世界中に存在感を示すことに成功した。
その一方で「ホンダはメカニカルな機構で動作するCVCCに全精力を傾けていたため、カーエレクトロニクスの分野では後れを取ることとなってしまった」(田上氏)のだという。田上氏が四輪の電装開発トップに任ぜられたのはそんな時期だった。
「CVCCで世界に“技術のホンダ”を示した後だけに、電装分野でも何としても勝たなければならない。カーエレクトロニクスで後塵を拝していたのはもの凄いプレッシャーだった」(田上氏)。
そんな田上氏がまず考えたのが、「ホンダとして同じ道を追いかけるのではなく、そこで一線を画したい」ということ。そんな中で念頭に置いたのが最終ゴールとしての“自動運転”だった。「目的地をインプットしたら自動的に目的地まで連れてってくれる。そんな夢を描いていた」(田上氏)のだ。
とはいえ、現在でもハードルが高い自動運転を当時の技術で実現できるはずもない。まずは実現できるところから始めようと、燃料噴射技術であるPGM-FIやアンチロックブレーキシステムなどで、当初はナビゲーションを開発するという発想はなかったのだという。自車位置測位に使った「ジャイロケータ」の基本技術となるガスレートジャイロも、最初はサスペンションに使うつもりで開発がスタートし、そこからナビゲーションへの応用へと発展したものだったようだ。
もっと手軽なものはないかと探すと、ミサイルなどの標的として使っていたターゲットプレーンに搭載していたガスレートジャイロに行き着く。部品点数も8点しかない。ところが「実際に使ってみると精度が低過ぎて、とても使い物にはならない」(田上氏)ことがわかる。そんな中、開発リーム内から「コース誘導なら使える」との提案があり、ここからカーナビゲーションへの展開がスタートし始めたというわけだ。
開発は困難を極めたが、それでも「協力会社の知恵があったからこそ完成にこぎ着けた」(田上氏)というほど、「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」には多くのサプライヤーメーカーが関わってくれている。
たとえば地図。今はデジタルマップが当たり前だが、当時は紙地図しかない時代。昭文社の協力により紙地図で使われていたものをフィルム化して使うこととなった。地図上にマーキングして消せる専用ペンは三菱鉛筆が担当。ブラウン管の上に差し込んだフィルム式地図上にペンでマーキングして使用した。
しかし、ジャイロで発生する“ドリフト現象”が発生。試行錯誤を繰り返し、その解決策として必要になったのが真空技術だった。ヘリウムガスの純度を高めることでガスレートジャイロの安定性を高め、そのためにランプメーカーの持つ高い真空技術が欠かせなかった。ここで「白羽の矢が立ったのがランプメーカーであるスタンレー電気」(田上氏)だった。
それでもジャイロである以上、“ドリフト”現象は完全には解消できない。真っ直ぐ行こうと思ってもドンドンずれていくため、この補正をすることが必須だった。
信号待ちをしたとき、交差点と地図を照らし合わせ、ここでずれているとわかったらフィルムの地図を動かしてズレを修正する。つまり、“手動マップマッチング”によって人間が補正を加えていたのだ。“自動運転”を目指したものの、当初はまさに人間と機械が手を携える、今から思えば微笑ましい光景が繰り広げられていたのだ。
その後、地図データはデジタル化されるが、ホンダはCD-ROMにデジタルマップを収録する特許を取得。広範な利用を期待してその利用についてはオープンとした。その甲斐もあって、デジタルマップは急速に普及していったのだ。
今でこそメモリーナビが増えてメディアそのものへの存在を感じられなくなっているが、ここまでナビゲーションが発展できたのもこうした先人たちの配慮があったからこそ実現できたものなのだ。
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