公開日 2024/09/04 06:30
代表取締役 北澤慶太氏が語る
【特別インタビュー】サエクコマース50周年 その原点回帰とこれから
PHILEWEBビジネス 徳田ゆかり
自社ブランド製品の製造販売と、海外製品の輸入販売を行い、ハイファイオーディオにおいて揺るぎない地位を確立しているサエクコマースは、1974年の創業から今年50周年を迎えた。同社の代表取締役である北澤慶太氏は、異業種の出身。2005年に父君である創業者の北澤貞夫氏から会社を受け継ぎ、手探りからの歩みで事業を進めてきた。さまざまな学びを得てきたという北澤慶太氏が、あらためてその道程を振り返り、節目を迎えての新たな意気込みを語る。
サエクコマース株式会社
代表取締役 北澤慶太氏
ーー 今年2024年、サエクコマースさんは創立50周年を迎えられました。誠におめでとうございます。大きな節目に、あらためて御社の歩みをお伺いしたいと思います。
北澤 ありがとうございます。皆様からご愛顧をいただいて、サエクコマースが50周年を迎えることができました。心からの感謝を申し上げたいと存じます。
当社の創業は1974年で、創業者である私の父 北澤貞夫は、もともとアナログ製品で著名なオーディオメーカーの出身でした。海外営業を担当していましたが、その会社がなくなってしまい、オーディオ販売店に勤めながらアナログのオーディオ製品を制作したいと願っていたのです。そんな時にオーディオエンジニアリングの田中さんという方と出会い、トーンアームづくりに着手し、会社を設立したのがサエクコマースの始まりです。
そして最初のトーンアームである「WE-308」がヒットし、その後も「WE-506」や、銘機と言われた「WE-407」といった製品を出して評判になりました。しかしやがてCDが普及し、アナログ製品の販売が下火になってしまい、サエクコマースは新たにケーブルの事業を立ち上げていきました。そのうちにオーディオエンジニアリングさんと袂を分かつことになり、残念ながらトーンアーム事業からは撤退してしまったのです。
それからは、接点復活剤やCDのレンズクリーナーといったアクセサリー用品を扱い、その後自社ブランドであるサエクのケーブルや、スープラやキャメロット・テクノロジーといった海外ブランドのケーブルを輸入し販売するようになりました。当時キャメロット・テクノロジーはすでに優れた電源ケーブルやタップの製品を出していましたし、スープラの製品は比較的値段が手頃で、マーケットで好評でした。トーンアームから撤退したのは当社にとって大きな痛手となりましたが、幸いなことに1 - 2年ほどで復調したということです。
ーー 北澤さんが社長にご就任されたのは2005年ですね。そこに至る経緯を教えてくださいますか。
北澤 オーディオエンジニアリングさんと決別した1984年頃、私は大学生でしたが、父に学費が出せなくなるかもしれないと言われたこともありました。なんとか卒業でき、私はオーディオとは無縁の建築設計の事務所に入りました。父からは会社を継いでほしいとは一切言われず、やりたいことをやれという感じだったものですから。
設計事務所が薄給だったので30代で独立したのですが、ある時父から声をかけられ、サエクコマースの赤坂の事務所の一角を安く間借りすることになりました。建築設計の仕事を行うかたわらで、父の仕事の様子がつぶさに見えるわけです。誘われて一緒に工場に行ってみたりもして、そのうち徐々にオーディオの仕事に馴染んでいったんですね。今思うと、父の策略だったのかもしれません(笑)。
ーー 北澤さんご自身はそれまで、オーディオや音楽に対しての馴染みはあったのでしょうか。
北澤 家には大きなスピーカーやアンプがたくさん並んでいて、私自身はそんな光景を当たり前に思って育ちました。小学生の頃から、長岡鉄男先生の図面を見てスピーカーを自分で作っていましたし、中学生の時にはもらったお年玉で、秋葉原にチューナーを買いに行きました。買った直後に階段で落として、ものすごくショックだったことも覚えていますよ。
高校生になるとオーディオ好きな友達と色々なジャンルの音楽も聴くようになってきましたし、大学で音楽サークルにいた従兄弟が、中学生の私をディスコに連れていってくれたりもして、音楽が面白くなっていったんですね。家のオーディオシステムをいじると怒られましたけれど、お下がりをもらったこともあります。出始めだったグラフィックイコライザーを手に入れて、ものすごい低音を出して聴いていましたよね。
ーー 会社の継承に関して、お父様からはいつ頃お話があったのでしょうか。
北澤 日々を過ごす中では、そんな話は全くありませんでした。けれども父が病気になり、だんだん思わしくなくなってきて、私も毎日のように病院に行くようになり、そんな時に初めて、やってくれるか、と言われて。これはもうしょうがないと、承諾して亡くなった父の跡を継ぎましたが、私としては隣で見ていたオーディオの仕事が魅力的ではあったのです。建築設計の仕事は1人のお客様と対峙して作りこんでいく仕事ですが、オーディオの場合はたくさんの方に製品をご提案できますから。
しかしその頃のオーディオ業界には、“PSE問題” という大波乱がありまして。当社にとってもトーンアームを撤退した時に次ぐ大ピンチでした。電気用品安全法に基づいて、製品にPSEマークの表示が義務付けられるようになりましたが、PSEマークのない当社の製品がお店から大量に返品された上、お金を請求される事態になったのです。父は色々なものを処分して何とかしのいでいましたが、体調不良になったのもこれが影響したせいだと思います。
ーー 当初から大変な状態で会社を引き継ぐことになったのですね。
北澤 そうですね。ただ幸いなことに、私が会社を継いだ頃に出た、スープラのHDMIケーブルが非常によく売れたのです。HDMIの規格ができて、スープラの製品が高く評価されて、サエクコマースとしても一息つけた感じです。
創業以来当社にお付き合いいただいてきた広告代理店さんにも、この頃から私は大変お世話になってきました。全く何もわからない中で、父からもこの会社を頼れと言われていましたし。当社の主軸の商材はケーブルでしたが、素材が6NやOFCが主流だった当時、PC-Triple Cを取り扱ってはどうかと、当時その広告代理店さんの社長だった矢口さんに説得されたんです。矢口さんは当時ご自身でもう一つ経営されていたプロモーション・ワークスという会社で、PC-Triple Cの専売を行っていましたので(編集註:PC-Triple Cの現在の総販売代理店は株式会社放送文化通信社)。
以前から著名なメーカーさんのケーブルの設計にも携わり、独自の考え方をもっておられた矢口さんはご経験を生かし、オーディオケーブルのイロハをイチから私に教えてくださったのです。私にとってはもう、修行ですね。たくさん叱られましたけれど、おかげさまで基本的な考え方を一からたたきこんでいただけました。
父は生前、30年もするとブランドの存続は厳しい、サエクのブランドもそろそろ限界だと言っていました。しかし自分としては、やはり何とかしたかったんです。父が遺したケーブルの設計メモを見ると、手書きで導体や樹脂、プラグの単価、1000mでいくらになるかといったことが書いてあるんですね。それを何度も引っ張り出して矢口さんの資料と見比べて模索して、そしてようやくPC-Triple Cを導体としたケーブルを2014年に世界で初めて発売できました。
ーー その結果、ブランドも30年を超えてなおしっかりと歩み続けておられます。ケーブルではホームオーディオだけでなく、カーオーディオも展開されていますね。
北澤 カーオーディオについては、引き継いですぐにカーオーディオの問屋さんからお声掛け頂けたのが幸運でした。私自身も車が好きですし、若い方々とコミュニケーションがとれるのが楽しくて、イベント等にも積極的に参加しています。そういう中で、カーオーディオでもいい音で聴きたい方がたくさんいらっしゃるのがわかって、とても嬉しい思いです。お客様と販売店様の距離感が非常に近くて、こちらにもお客様の声が届きやすいのも有難いことで、今後も注力していきたいですね。
ーー そして御社のもうひとつの大きな事業はトーンアームを主体としたアナログ関連製品です。一度撤退された後、どのように着手されていったのですか。
北澤 社長就任の当初に「Senka21」でインタビューをしていただき、その時に私は、サエクコマースの原点であるアナログオーディオ製品を扱いたいと言っていました。それから業界のいろいろな方々とお付き合いさせていただく中で、サエクがトーンアームをやらなきゃダメだと言われて来たんですね。そしてある時、それが実現できるチャンスが来たんです。
仲介してくださった方がいて、内野精工さんという精密加工会社の代表取締役である内野誠さんに出会うことができました。内野精工さんもかつてはレコードプレーヤーのパーツを手がけていたのですが、内野精工さんがサエクの製品を手がけていたこともあったと。偶然と幸運の賜物ですよね。そして内野誠さんはトーンアームの制作に着手しておられて、私たちはお互いに協力していくことになったのです。
父がかつてオーディオエンジニアリングさんと手掛けたトーンアームWE-407は、剛性と感度に優れた構造をもつダブルナイフエッジ方式を採用しているのですが、内野さんと協力してこれを再び作ることにしたのです。当時のWE-407をネットオークションで入手して、分解して構造を分析し図面を起こすところから始めました。試作機を何度も作って試聴し、そして音質を追い込んでいって、ようやく2019年に「WE-4700」を完成させたのです。サエクコマースの原点に戻った思いで、非常に嬉しかったですね。
1979年のWE-407を作っていた当時の技術と比べ、ミリオーダー、マイクロメーターオーダーの加工精度で削れる現在の技術は明らかに違います。内野さんの設計技術も高度で、WE-4700を作っていきながらいろいろなノウハウが積み重なりました。そして内野さんと仕事をしながら、私自身もトーンアームについて徹底的に学び直すことができ、新たな手応えを掴みました。これが当社にとって非常に大きな転機になりましたし、そこからオーディオの会社としてあらためて本格的に動き出せたように思います。
そしてその経験は、ラックスマンさんのトーンアームの制作にもつながりました。ラックスマンさんでは、自社のアナログプレーヤーのトーンアームを作ってこられた市川宝石さんが2020年にその事業をやめることになり、どうしていこうかと非常に困っておられたのです。その話を聞いてラックスマンさんに話をさせていただき、サエクの技術を採用したトーンアームが、ラックスマン「PD-151 MARK II」に採用されることになったのです。
それをきっかけに、2023年に発売されたラックスマンのフラグシップのアナログプレーヤー「PD-191A」については、共同開発で新たなトーンアームを制作しました。ダブルナイフエッジ方式でなくシングルナイフエッジ方式を採用しましたが、決められた価格設定の中で素晴らしい音楽表現を可能にするトーンアームができ、おかげ様でラックスマンさんにも喜んでいただくことができました。
ラックスマンさんとのご縁も、サエクコマースにとって非常に有難いものになりました。あのPD-191Aのアームはサエク製であるということは、ブランド力と製品力を国内外にアピールする上でも大きな力になりますから。
ーー 社長として20年近く過ごしてこられて、ご自身ではどんなお気持ちですか。
北澤 社長に就任してから10年の間は暗闇の中で手探りの状態でした。売上げを伸ばせず非常に苦しかった時期に、当社と関係のある方々に集まっていただいて決起集会を開いたことがあったんですよ。そこでは何か打開策が出たわけではないんですが、皆さんが励ましてくださったのが有難かったですね。お力を借りて頑張ろう、という思いになりました。苦しかった頃のいろいろな経験は貴重な学びになっていますし、その都度たくさんのアドバイスもいただき、その後の方向を定めることができたと思っています。
2014年に発売したPC-Triple Cのケーブル作りに挑戦させていただいて、すごくいいものができたと実感できてからは、音についても迷いがなくなったんです。PC-Triple Cの音は一聴では落ち着いていて派手な印象はありませんが、私はこれがいいと思っています。PC-Triple C導体はケーブルでオーディオの音を変えるというより、整える。つまり信号の流れを阻害せず、ノイズを減らして鮮度を上げるということですね。これからはそういうことだけをしよう、サエクコマースの音質思想はこれだ、それでいいと自分の中ですとんと腑に落ちて、腹をくくることができました。この方向で、全部の製品をまとめていけばいいと確信しています。
それからはもう暗闇を脱して、明るい道を歩けているかなと感じますね。今はやっと物作りが楽しめるようになってきました。これからは、事業をさらに拡大するため海外にももっと注力していきたいですし、10年くらい先を見越して、後継者のことも考えなくてはと思います。
ーー 50年を経て、サエクコマースはオーディオ業界の中で大きな存在を示してこられました。ここからはどんな展開を目指されるでしょうか。
北澤 やはりアナログオーディオに注力していきたいですね。ケーブルとアナログ製品の2つを軸として、しっかりとやっていきます。ケーブルについては、しっかりと安定供給をさせ、今後はデジタル系も展開していきます。アナログ製品は、アクセサリーを含めて、トーンアーム、カートリッジに注力していきます。
50周年記念モデルとして、すでに発売しましたグランドスタビライザー「SGS-100」に加えて、MCカートリッジの「XC-11」を発売しました。かつて展開しておりました「XC-10」を、これも現代の技術で進化させたものです。
記念モデルとしてはさらにもうひとつ、完全新設計のダブルナイフエッジトーンアーム「WE-709」を年内に発売しようと計画しています。現在世界各地のオーディオショーでお披露目しており、さらに調整を加えていくところです。
そして、オーディオの市場をもっと広げていければと思います。国内もそうですが、海外についても。年内に予定しているトーンアームを、そのフックにしたいと考えています。そうしてサエクのブランドを浸透させて、ケーブルも海外に広げていきたいですね。
ーー これからのご活躍もますます楽しみですね。有難うございました。
サエクコマース株式会社
代表取締役 北澤慶太氏
■トーンアームから始まったサエクコマースの歩み。その50年間の紆余曲折とは
ーー 今年2024年、サエクコマースさんは創立50周年を迎えられました。誠におめでとうございます。大きな節目に、あらためて御社の歩みをお伺いしたいと思います。
北澤 ありがとうございます。皆様からご愛顧をいただいて、サエクコマースが50周年を迎えることができました。心からの感謝を申し上げたいと存じます。
当社の創業は1974年で、創業者である私の父 北澤貞夫は、もともとアナログ製品で著名なオーディオメーカーの出身でした。海外営業を担当していましたが、その会社がなくなってしまい、オーディオ販売店に勤めながらアナログのオーディオ製品を制作したいと願っていたのです。そんな時にオーディオエンジニアリングの田中さんという方と出会い、トーンアームづくりに着手し、会社を設立したのがサエクコマースの始まりです。
そして最初のトーンアームである「WE-308」がヒットし、その後も「WE-506」や、銘機と言われた「WE-407」といった製品を出して評判になりました。しかしやがてCDが普及し、アナログ製品の販売が下火になってしまい、サエクコマースは新たにケーブルの事業を立ち上げていきました。そのうちにオーディオエンジニアリングさんと袂を分かつことになり、残念ながらトーンアーム事業からは撤退してしまったのです。
それからは、接点復活剤やCDのレンズクリーナーといったアクセサリー用品を扱い、その後自社ブランドであるサエクのケーブルや、スープラやキャメロット・テクノロジーといった海外ブランドのケーブルを輸入し販売するようになりました。当時キャメロット・テクノロジーはすでに優れた電源ケーブルやタップの製品を出していましたし、スープラの製品は比較的値段が手頃で、マーケットで好評でした。トーンアームから撤退したのは当社にとって大きな痛手となりましたが、幸いなことに1 - 2年ほどで復調したということです。
ーー 北澤さんが社長にご就任されたのは2005年ですね。そこに至る経緯を教えてくださいますか。
北澤 オーディオエンジニアリングさんと決別した1984年頃、私は大学生でしたが、父に学費が出せなくなるかもしれないと言われたこともありました。なんとか卒業でき、私はオーディオとは無縁の建築設計の事務所に入りました。父からは会社を継いでほしいとは一切言われず、やりたいことをやれという感じだったものですから。
設計事務所が薄給だったので30代で独立したのですが、ある時父から声をかけられ、サエクコマースの赤坂の事務所の一角を安く間借りすることになりました。建築設計の仕事を行うかたわらで、父の仕事の様子がつぶさに見えるわけです。誘われて一緒に工場に行ってみたりもして、そのうち徐々にオーディオの仕事に馴染んでいったんですね。今思うと、父の策略だったのかもしれません(笑)。
ーー 北澤さんご自身はそれまで、オーディオや音楽に対しての馴染みはあったのでしょうか。
北澤 家には大きなスピーカーやアンプがたくさん並んでいて、私自身はそんな光景を当たり前に思って育ちました。小学生の頃から、長岡鉄男先生の図面を見てスピーカーを自分で作っていましたし、中学生の時にはもらったお年玉で、秋葉原にチューナーを買いに行きました。買った直後に階段で落として、ものすごくショックだったことも覚えていますよ。
高校生になるとオーディオ好きな友達と色々なジャンルの音楽も聴くようになってきましたし、大学で音楽サークルにいた従兄弟が、中学生の私をディスコに連れていってくれたりもして、音楽が面白くなっていったんですね。家のオーディオシステムをいじると怒られましたけれど、お下がりをもらったこともあります。出始めだったグラフィックイコライザーを手に入れて、ものすごい低音を出して聴いていましたよね。
ーー 会社の継承に関して、お父様からはいつ頃お話があったのでしょうか。
北澤 日々を過ごす中では、そんな話は全くありませんでした。けれども父が病気になり、だんだん思わしくなくなってきて、私も毎日のように病院に行くようになり、そんな時に初めて、やってくれるか、と言われて。これはもうしょうがないと、承諾して亡くなった父の跡を継ぎましたが、私としては隣で見ていたオーディオの仕事が魅力的ではあったのです。建築設計の仕事は1人のお客様と対峙して作りこんでいく仕事ですが、オーディオの場合はたくさんの方に製品をご提案できますから。
しかしその頃のオーディオ業界には、“PSE問題” という大波乱がありまして。当社にとってもトーンアームを撤退した時に次ぐ大ピンチでした。電気用品安全法に基づいて、製品にPSEマークの表示が義務付けられるようになりましたが、PSEマークのない当社の製品がお店から大量に返品された上、お金を請求される事態になったのです。父は色々なものを処分して何とかしのいでいましたが、体調不良になったのもこれが影響したせいだと思います。
■新たなフェーズを迎えた、世界初PC-Triple C採用のケーブルづくり
ーー 当初から大変な状態で会社を引き継ぐことになったのですね。
北澤 そうですね。ただ幸いなことに、私が会社を継いだ頃に出た、スープラのHDMIケーブルが非常によく売れたのです。HDMIの規格ができて、スープラの製品が高く評価されて、サエクコマースとしても一息つけた感じです。
創業以来当社にお付き合いいただいてきた広告代理店さんにも、この頃から私は大変お世話になってきました。全く何もわからない中で、父からもこの会社を頼れと言われていましたし。当社の主軸の商材はケーブルでしたが、素材が6NやOFCが主流だった当時、PC-Triple Cを取り扱ってはどうかと、当時その広告代理店さんの社長だった矢口さんに説得されたんです。矢口さんは当時ご自身でもう一つ経営されていたプロモーション・ワークスという会社で、PC-Triple Cの専売を行っていましたので(編集註:PC-Triple Cの現在の総販売代理店は株式会社放送文化通信社)。
以前から著名なメーカーさんのケーブルの設計にも携わり、独自の考え方をもっておられた矢口さんはご経験を生かし、オーディオケーブルのイロハをイチから私に教えてくださったのです。私にとってはもう、修行ですね。たくさん叱られましたけれど、おかげさまで基本的な考え方を一からたたきこんでいただけました。
父は生前、30年もするとブランドの存続は厳しい、サエクのブランドもそろそろ限界だと言っていました。しかし自分としては、やはり何とかしたかったんです。父が遺したケーブルの設計メモを見ると、手書きで導体や樹脂、プラグの単価、1000mでいくらになるかといったことが書いてあるんですね。それを何度も引っ張り出して矢口さんの資料と見比べて模索して、そしてようやくPC-Triple Cを導体としたケーブルを2014年に世界で初めて発売できました。
ーー その結果、ブランドも30年を超えてなおしっかりと歩み続けておられます。ケーブルではホームオーディオだけでなく、カーオーディオも展開されていますね。
北澤 カーオーディオについては、引き継いですぐにカーオーディオの問屋さんからお声掛け頂けたのが幸運でした。私自身も車が好きですし、若い方々とコミュニケーションがとれるのが楽しくて、イベント等にも積極的に参加しています。そういう中で、カーオーディオでもいい音で聴きたい方がたくさんいらっしゃるのがわかって、とても嬉しい思いです。お客様と販売店様の距離感が非常に近くて、こちらにもお客様の声が届きやすいのも有難いことで、今後も注力していきたいですね。
■原点であるトーンアームの再展開、人とのつながりで可能性が広がる
ーー そして御社のもうひとつの大きな事業はトーンアームを主体としたアナログ関連製品です。一度撤退された後、どのように着手されていったのですか。
北澤 社長就任の当初に「Senka21」でインタビューをしていただき、その時に私は、サエクコマースの原点であるアナログオーディオ製品を扱いたいと言っていました。それから業界のいろいろな方々とお付き合いさせていただく中で、サエクがトーンアームをやらなきゃダメだと言われて来たんですね。そしてある時、それが実現できるチャンスが来たんです。
仲介してくださった方がいて、内野精工さんという精密加工会社の代表取締役である内野誠さんに出会うことができました。内野精工さんもかつてはレコードプレーヤーのパーツを手がけていたのですが、内野精工さんがサエクの製品を手がけていたこともあったと。偶然と幸運の賜物ですよね。そして内野誠さんはトーンアームの制作に着手しておられて、私たちはお互いに協力していくことになったのです。
父がかつてオーディオエンジニアリングさんと手掛けたトーンアームWE-407は、剛性と感度に優れた構造をもつダブルナイフエッジ方式を採用しているのですが、内野さんと協力してこれを再び作ることにしたのです。当時のWE-407をネットオークションで入手して、分解して構造を分析し図面を起こすところから始めました。試作機を何度も作って試聴し、そして音質を追い込んでいって、ようやく2019年に「WE-4700」を完成させたのです。サエクコマースの原点に戻った思いで、非常に嬉しかったですね。
1979年のWE-407を作っていた当時の技術と比べ、ミリオーダー、マイクロメーターオーダーの加工精度で削れる現在の技術は明らかに違います。内野さんの設計技術も高度で、WE-4700を作っていきながらいろいろなノウハウが積み重なりました。そして内野さんと仕事をしながら、私自身もトーンアームについて徹底的に学び直すことができ、新たな手応えを掴みました。これが当社にとって非常に大きな転機になりましたし、そこからオーディオの会社としてあらためて本格的に動き出せたように思います。
そしてその経験は、ラックスマンさんのトーンアームの制作にもつながりました。ラックスマンさんでは、自社のアナログプレーヤーのトーンアームを作ってこられた市川宝石さんが2020年にその事業をやめることになり、どうしていこうかと非常に困っておられたのです。その話を聞いてラックスマンさんに話をさせていただき、サエクの技術を採用したトーンアームが、ラックスマン「PD-151 MARK II」に採用されることになったのです。
それをきっかけに、2023年に発売されたラックスマンのフラグシップのアナログプレーヤー「PD-191A」については、共同開発で新たなトーンアームを制作しました。ダブルナイフエッジ方式でなくシングルナイフエッジ方式を採用しましたが、決められた価格設定の中で素晴らしい音楽表現を可能にするトーンアームができ、おかげ様でラックスマンさんにも喜んでいただくことができました。
ラックスマンさんとのご縁も、サエクコマースにとって非常に有難いものになりました。あのPD-191Aのアームはサエク製であるということは、ブランド力と製品力を国内外にアピールする上でも大きな力になりますから。
■暗闇を経てたどり着いた “サエクの音” に確信。さらなる先へ進んでいく
ーー 社長として20年近く過ごしてこられて、ご自身ではどんなお気持ちですか。
北澤 社長に就任してから10年の間は暗闇の中で手探りの状態でした。売上げを伸ばせず非常に苦しかった時期に、当社と関係のある方々に集まっていただいて決起集会を開いたことがあったんですよ。そこでは何か打開策が出たわけではないんですが、皆さんが励ましてくださったのが有難かったですね。お力を借りて頑張ろう、という思いになりました。苦しかった頃のいろいろな経験は貴重な学びになっていますし、その都度たくさんのアドバイスもいただき、その後の方向を定めることができたと思っています。
2014年に発売したPC-Triple Cのケーブル作りに挑戦させていただいて、すごくいいものができたと実感できてからは、音についても迷いがなくなったんです。PC-Triple Cの音は一聴では落ち着いていて派手な印象はありませんが、私はこれがいいと思っています。PC-Triple C導体はケーブルでオーディオの音を変えるというより、整える。つまり信号の流れを阻害せず、ノイズを減らして鮮度を上げるということですね。これからはそういうことだけをしよう、サエクコマースの音質思想はこれだ、それでいいと自分の中ですとんと腑に落ちて、腹をくくることができました。この方向で、全部の製品をまとめていけばいいと確信しています。
それからはもう暗闇を脱して、明るい道を歩けているかなと感じますね。今はやっと物作りが楽しめるようになってきました。これからは、事業をさらに拡大するため海外にももっと注力していきたいですし、10年くらい先を見越して、後継者のことも考えなくてはと思います。
ーー 50年を経て、サエクコマースはオーディオ業界の中で大きな存在を示してこられました。ここからはどんな展開を目指されるでしょうか。
北澤 やはりアナログオーディオに注力していきたいですね。ケーブルとアナログ製品の2つを軸として、しっかりとやっていきます。ケーブルについては、しっかりと安定供給をさせ、今後はデジタル系も展開していきます。アナログ製品は、アクセサリーを含めて、トーンアーム、カートリッジに注力していきます。
50周年記念モデルとして、すでに発売しましたグランドスタビライザー「SGS-100」に加えて、MCカートリッジの「XC-11」を発売しました。かつて展開しておりました「XC-10」を、これも現代の技術で進化させたものです。
記念モデルとしてはさらにもうひとつ、完全新設計のダブルナイフエッジトーンアーム「WE-709」を年内に発売しようと計画しています。現在世界各地のオーディオショーでお披露目しており、さらに調整を加えていくところです。
そして、オーディオの市場をもっと広げていければと思います。国内もそうですが、海外についても。年内に予定しているトーンアームを、そのフックにしたいと考えています。そうしてサエクのブランドを浸透させて、ケーブルも海外に広げていきたいですね。
ーー これからのご活躍もますます楽しみですね。有難うございました。
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