巻頭言 思うこと 和田光征 『実は地獄も極楽もちっとも変わらない。少し見ただけで同じような場所なのだ。けれどもそこに住む人たちの心がまったく違う。 たとえばおいしい釜揚げうどんが地獄にも極楽にもある。それぞれ大きな釜があって、お湯がぐつぐつ煮立っている。うどんを湯がいているその大きな周りを、お腹をすかした者たちが1メートルもある長い箸を持っている。ここから先が天国と地獄でまったく違うのだ。 地獄では、みんなが我先に争って箸を突っ込む。何とかうどんをつかむことはできるのだけれども、箸が1メートルもあるものだから手元のつけ汁のお椀にまで持ってくることができないし、当然食べることもできない。 そうこうするうちに、向こう側にいる者が箸の先に引っ掛かっているうどんを横取りしようとするので 「それは俺のもんだぞ、食うな」と怒り、相手を箸で叩き、突く。すると「何をこの野郎」と相手も突き返してくる。 そんなことがそこらじゅうで始まって、うどんは鍋から飛び散ってしまって、誰も一本も食べられずに、殴り合いのけんかが始まって、うどんは鍋から飛び散ってしまい、阿鼻叫喚の絵図と化してしまう。 それが地獄なのだ。 では極楽というのはどうなっているのか。極楽にいる者は皆、利他の心、他人を思いやる美しい心を持っている。1メートルの箸でうどんをつかんだら、釜の向こう側の人のつけ汁につけて 「さあ、あなたからお先にどうぞ」 と言って食べさせてあげる。 すると今度は向こう側の人が同じように自分に食べさせてくれる。一本たりともうどんを無駄にすることなく、みんなお腹一杯食べられる―――。 つまり、地獄と極楽は確かにあるが、それは人の心の有様がそれらを作り出すのだよ』。 これは、稲盛和夫著「人生の王道」の246頁に記されている老師に教わった話であり、稲盛氏は「社会を構成する人々の心がいかにあるかによって、その集団の様相はまったく異なるものになってしまいます。そこにすむ人の心が利己心に満ち、自分のことだけを考えているならば荒廃した様を、和やかで思いやりに満ちたものであるならば豊かな様を、社会は見せるのです。この老師の話はまさに社会を表しています」と説いている。 このところのあらゆることに対して、私は地獄と極楽をみていた。老師の話に、まさにそのことを教えていただいた思いである。 西郷隆盛の教えに「すべての悪の根源は自愛にある」とあるが、世界中の地獄人が自分のことばかり考え、行動したが故に世界不況をもたらしたと私は考える。その回復にはなお時間がかかると思うが、向上心ある人々によって極楽がもたらされることと確信している。人間は、そう動くものである。 極楽の心を持って、現場主義でお客様をしっかりと掴み、とどまらず行動する。そのことによってのみ道は開けてくるのである。 |