巻頭言 人間百年スポットライト 和田光征 この頃、改めて「明日の今日、昨日の今日」を想起する。これは20年以上も前に私が創ったもので、いつの時代になっても通用する辞句である。 「明日の今日」とは何か。まさに明日のために今日どう生きているか、如何なる戦略のもとに手を打っているかということである。今日という日は“過ぎた日に明日を考え打った業の結果”なのであり、今日が突然あるのではない。いうなれば因果律である。 その考え方、ものの見方はいくら頭で分かっていたとしても、結局は過去からの平行移動でしかない。頭で分かるということは何も分かっていないことに等しく、そこからは明日をたぐり寄せることなどできない。 「明日の今日」の考え方、見方の原点には人間そのものがしっかりあるということである。人間は太陽、地球、生命等諸々に抱かれて存在しているのである。そして、生と死がある。万物にも生と死がある。生とは存在するということである。しかし、無とははじまりでもある。 時間で考えると存在と無が理解できる。光年の世界から人間の生から死までの時間を見た場合どうだろうか。それは何もない世界である。しかし、種によって親から子という時間の連鎖が人間を存在させるのである。 人間が存在する時間は百年である。百年という時間の中で誕生があり死がある。百年という時間にスポットライトが当たっているようなものである。その為に人間の存在を厳しく認識し、理解しなければならない。 人間が存在しない限り何も始まらないし、起こらない。つまり、技術も商品も、デジタルであろうが何であろうが、人間がまず、いてこそ発生することなのである。そんなこと当たり前じゃないかと思いがちだが、縷々述べてきた“人間”の認識がない限り、当たり前などとは言えないのである。 今、厳しい状況にある業界や企業等々があるとすれば、それは往々にして昨日の連続、言うなれば「平行移動」がそうさせているだけのこと。数年前に今日を予測して手を打っていないからである。繁栄しているのは、必ず過去に打った手が効果として現出しているということである。 今、明日のために手を打つことを怠れば、数年後にはまた大変な状況が訪れることになる。明日を見据えてしっかり対応してこそ、明日が開け、今日繁栄するのである。「明日の今日」の売り上げを業界あげて確保していきたいと心から思う。 |