巻頭言

Kさんの話

和田光征
WADA KOHSEI

Kさんは自分に限って、と思ったそうです。自分に限って病に倒れるなど万分の一も思いたくない、それが人間の性というものでしょう。それでいながら、不節制を惜しみなくわが身へ与えているわけです。不節制は花火のように恍惚と不安の瞬間の破裂の連続であり、生きていることの無意識の享受であるように思えます。

さて、Kさんの話です。Kさんは町医者の勧めで、軽い気持ちで病院に行ったそうです。そして「即入院」と告げられました。Kさんは1週間もあれば出てこられるだろうと、入院宣告の衝撃を和らげるように、自らに語りかけながら、入退院事務所へ先生が記した書類をもっていったのです。「6週間から12週間ですね」と事務員。Kさんは自らの病への疑問と入院期間とを重ね併せ、一瞬にして暗闇の中へ放り込まれた思いだったそうです。

Kさんは入院しました。教授回診における、教授はじめとする医師団が交わす言葉のひとしずくすら逃すまいと、耳をそばだて、神経を集中したそうです。Kさんも割と知識は持っていました。知識をもっていたが故に、ちょっとした言葉で迷いの淵へと誘われたようです。

「和田さん、今、こうして元気になって数年経ちましたけど、やはり、最初は生と死のピンポンゲームみたいなもので、躁と鬱が変わりばんこに出てきて大変でしたよ」とKさんは苦笑しました。

ここでKさんからお聞きした「病と戦う術」を二つ披露しましょう。

「忘れるということ」
「泰然とせよ」

ともかく、忘れるというのがポイント。あの時、注意をしておけば、とか悔いても始まらない。むしろ、現実を見つめ、認識をし、これからを考え対応することが大切。

「今、元気になったからいえることかもしれませんが」とKさんは前置きした。

生死の境界で綱渡り状態、また凶と出たとしても、いかに泰然としていられるか、じたばたしないでいられるか、これは難題であるけれども、天に身を委ねて、そう努めたとのこと。

Kさんは「いかに精神的な強さが大切かを感じました」と強調された。

「失意泰然」がありますが、口でいうは易し、行うは難しです。ヴェルレーヌの詩の一節に「恍惚と不安とふたつわれにあり」があって、太宰治はそれを「大きな歓喜と大きな悲惨」といっています。結局、精神の強さ、泰然を履行するということは、歓喜のなかに悲惨を見つめられる、そんな淡々とした心情に宿るのかも知れません。

いまの世、いつ何時、何が起こるかもしれませんが、万が一の時の心がまえといいますか、日頃の精神修養もまた、求められているのではないでしょうか。