巻頭言
「気を移す」
和田光征
WADA KOHSEI
家光は沢庵和尚に茶を勧めながら、家来達に庭先で鉄砲を撃たせた。けたたましい音だったが沢庵和尚は全く我関せずの体で涼しい顔をして茶を飲んでいる。家光の悪戯は沢庵に全く通じなかったのである。
家光は何とかして沢庵をぎゃふんと言わせたいのだが、前述のように耳元で鉄砲を撃っても平然としている。そんな或る日、朝鮮国より虎が贈られてきた。家光はニヤリと笑った。虎の檻に沢庵を入れたら、流石の和尚も参った、参ったと泣き言をいう筈だ。かと言って沢庵だけを呼んで、この檻に入れるのでは腹の底が見えすいている。そこで家光は諸大名を集め虎を見物させることとした。身の丈2m余ある虎の凄さに諸大名は目を見張った。
「ところで…」と家光。「…誰か、この檻に入ってみる者はおらぬか」と目線を大名達に注いでいった。大名達は目が合わないように皆、下を向いている。「但馬、どうじゃ」。「ハッ、かしこまりました」と柳生但馬守は檻の方へ歩み出、刀を新陰流に構え、虎を睨みつけた。虎も牙をむいて但馬守を凝視する。「よし、開けよ」。但馬守は檻に入り、一寸の隙も見せず虎と対峙し、じりじりと追い詰める。虎は後ずさりをし乍ら、但馬守を凝視するが襲いかかれない。
家光は「もう、よい」と言った。但馬守は頷き、真剣を構えたまま後ずさりし檻の入口まできて「開けよ」といい、外へ出た。そして、フーッと一息くれて家光に礼をし席へ着いた。顔面、油汗が沸き出ていた。大名達は「流石は但馬殿じゃ」と感心しきりであった。
「…ところで沢庵どうじゃ」と家光は悪戯っぽい顔を沢庵和尚に向けた。沢庵は「かしこまりました」と言い残して檻の前に進み出「開けよ」と促した。大名達は法衣だけの沢庵に同情した。家光も「もう良い」と声をかけようとした。しかし、もう沢庵は檻の中に入っている。ところが虎は襲いかかるどころか、沢庵に甘え始め、あげくの果てにゴロゴロといびきをかきながら眠り始めた。家光は負けたと悟った。「もう良い」。沢庵は旧知の友と別れるように虎の頭を撫で「また来るぞ」と言い残して檻を出た。
この話は事実である。但馬守は一寸の隙も見せず対峙し、沢庵は隙だらけ。虎は対峙してくるものに対峙し、対峙しない者には甘えている。対峙するという「気」を対峙しない「気」に移す、これを沢庵はやった訳である。相手がこの人間は安心できると思えば声をかけてくるし、心も許すが、対峙してくるものにはいつも隙を見せず、喧嘩ごしである。
実は右の一節は中村天風著「心に成功の炎を燃やせ」の「気を移す」のさわりである。状況が悪ければ悪い中で考え、行動しさらに悪くする。そこで、そうした環境から一転して発想する。これが「気を移す」ということである。気を移すことによって一変し、思わぬ良い状況が展開するのである。来年をそんな思いで過ごしたいと思う。まずは年末商戦、気を移して成果をあげたい。