巻頭言
故里行
和田光征
WADA KOHSEI
9月の終わりに久々に故里へ行った。大分県の西南にある故里の風景は懐かしく、曼珠沙華が美しい。里山に囲まれた田圃は、収穫の日に向かって黄金色を帯び始めている。
故里人は相変わらず人情豊かである。しかし、私もいつしか71才となったので、故里人の多くはあの世へと旅立った。仕方のないことだが、一抹のさみしさがやわらかな風景の中に迫ってくる。
私は九人兄弟の四男で、長女にとても可愛がられ、それは彼女が82才となった今も続いている。長女は昔から人気者で、多くの人に愛されていて、現在でも人のために尽くしていて元気いっぱいである。
私の思いに「人に尽くしながら長生きをする人達は、天の配剤の善果のもとにある」がある。人を不幸せにして長生きなどあり得ない、世の中を見ても私の思いのとおりで、姉夫婦にもそれを重ねているこの頃である。
姉の家に行って、彼女が老人会に寄稿した一文を読んで感銘を受けた。そして、こうした苦労があったのにいつも笑顔で優しい、その凄さに改めて感激したのだった。ここに日本の近代史の一ページを見る思いである。
「私の生きた絆の半生」 山崎三千子
私は清川町伏野の中野で育ちました。3歳の時に実母を亡くし、8歳で二番目の母が亡くなり、三人目の母になりました。子どもは9人でした。私が長女でしたので、弟妹の世話が大変でした。
戦時中、父は二度従軍したので、私にとっては、まま母(継母)の母親と父の居ない家庭を守って行かなければなりませんでした。母は、まま母根性など全くない人で、子どもに分け隔てなく、一心に家庭に尽くす人でした。私は弟妹の面倒をみながら、畑仕事や家事に明け暮れる毎日を過ごしました。そんな生活でしたから、学校にも時々しか行くことが出来ませんでした。今も忘れられない事は、マッチを買う金にも不自由する生活でしたから、しばしば隣の家に「ひだね(火種)」をもらいに行き、炊事の火をおこさなければならなかったことです。何にせよ、他人の家の物を貰いに行くことほどつらい事はありません。隣の家族とはいえ、度重なる「火種乞い」には、いい顔はしませんでした。あのころの忘れられない辛い思い出ですが、今となっては、懐かしくさえ感じられます。
17歳のころから、私は、農閑期には、私の母の姉叔母の家に、叔父、叔母の介護に行ったものでした。家の仕事をしながらよその家の世話をするのは大変な苦労でしたが、二人の最期をみとってやりました。叔父、叔母には子どもがいませんでしたので、主人が山崎家の養子になり、家督を継いで私たちは昭和32年に結婚しました。私たちは、山崎家の「取り子取り嫁」でしたので、何も家の事情は聞かされていませんでしたが、山崎の叔母が亡くなった後、大きな負債があることを知りびっくりしました。家屋や土地はすべて借金の抵当になっていました。結婚して、女の子二人と男の子一人の子どもに恵まれましたが、子どもを育てながら、家計を倹約して、5年がかりで借金をすべて返済しました。主人の強い信念に支えられ、二人で頑張ったからこそ、今の幸せがあるのだと思っています。