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巻頭言

いつも人がいた

和田光征
WADA KOHSEI

夢はかへっていった。
山の麓のさびしい村に
水ひき草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を 
(立原道造「萱草に寄す」より)

この詩は、立原道造の詩集「萱草に寄す」の「のちのおもひに」の第一章である。私が高校二年生の時の国語の教科書に載っていた詩で、当時の私の心を捉えて放さなかった。そして私は、立原道造のファンになっていく。当時は東京へ行って、夜学ぶということを決めていた。東京から見たふるさとへの思いが、まだ田舎にいながらこの一節が私を捉えて放さなかった。

立原の描く林道は、東京にきて信州へ行って、こういう風景の中で創られたのかと思った。私の故郷である大分の林道は杉林、広葉樹が多く、落葉松は全くなかった。あれは、社の慰安旅行で霧ヶ峰高原に旅した時である。水引草もあって、さわやかな風がサーと吹いてきて、草木の上に立ち、葉裏の白い風景が海の波が寄せて来る様に似て、思わず立ち止まったのである。

詩を読んでいて、落葉松が分からなかった。やはり信州に行った秋の風景に驚いたのだった。落葉松は山々から林道まで黄金色に染まり、一面が落葉松がベースになった黄金の風景へと変わっている。

私はまだ19才だった。品川区旗の台の防錆工場で働きながら学んでいた。そうした中で夢は故郷へかえっていった。3月の東京に沈丁花が咲いていた。

はるかなる 故郷にぞ春の 来たるらむ
北の都に 沈丁花咲く

その頃、父に送った葉書にしたためた東京で生きていくという私の決意である。防錆工場にひとりの大学生が夏休みに一ヵ月間アルバイトにきて、私はよく議論をし、すっかり仲良しになった。同じ歳だった。

彼に「和田君、ここは危険だから他に移った方がいい…。私が親爺に相談するから、その時は移るかい」と言われ、私は首肯した。彼は次の朝、「親爺が分かった、と言ってくれた」と言い、その次の日にはアルバイト先が決まっていた。私は大日本印刷系の教科書会社の倉庫番として転職することとなった。その会社に行って、私に会った方が副社長だったので驚愕し、友人のお父さんはこの方に話してくれたのかと恐縮した。後日、御礼に彼のご両親をお訪ねし驚いた。大変なご馳走が用意され、家族で歓待して頂いたのだった。

そして私が少年の頃から決めていたとおり、千代田区で働き、職場から歩いて3分の専修大学法学部に通うこととなった。私は彼と出会ったことによって場面が変わり、まさにそこから新たな人生がスタートした。教科書会社だけあって文学青年が多く、そうしたサークルにも誘われ、日本未来派にも籍を置くこととなった。初めて伺うと、朝日新聞の文化欄で半ページ詩論を書かれていた方が主催者で、私が部屋に入ったら「和田君、君の席はここ」と言われ、隣に座ることとなった。

東京にきてこうした経緯で、いかにも東京らしい空気と仲間に支えられ、私の新しい人生が始まることとなったが、人の出会い、人に助けて頂いた感謝の念は忘れたことがない。ひとつひとつの出会いに自分は育てて頂いたと感謝でいっぱいである。しかし、今でも故郷への夢にいつもかへっていく、私がいる…。

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