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巻頭言

蒼い時代

和田光征
WADA KOHSEI

先月来、私自身の歩みを振り返っています。私は千代田区の教科書会社に移ると同時に、大田区石川台の民家の三畳一間を借り住み始めた。隣のガラス窓から反射した陽が午後三時頃から10分ばかり差し込んできたが、後は暗い部屋だった。その部屋のお婆さんから関東大震災の話を聞かされ、だから縁の下には薪が積み上げてあるのだと言っていた。私は東京大空襲との記憶違いではないかと思ったが、ニコニコしてよく話を聞いていた。

そんな下宿生活だったが、本さえあれば迅速に時間が流れていた。大学では古在由重教授の哲学の時間が好きで、先生には個人的にもいろいろと教えて頂いた。本質論や認識論は夢中になって読み、思索し、「思索ノオト」はかなりの冊数になった。そして試験では110点を頂いた。

ある時、「これは何だ」と先生、私は「コップ」と答える。すると、「違う」と言う。そこに認識論の初歩がある。コップということは現象であって、本質ではない。その本質を認識するとは、自然科学的な要素や歴史や、様々な生成や用途等を掴むことであると私は理解した。あらゆるものすべてに本質があり、本質から派生したすべてが現象であると私は理解した。

古在先生は唯物論者であり、名古屋大学の教授を経て専修大学に来られていた。私はその先生から直にいろいろ教えていただいた故に、私にとって先生は目の前に現れた偉大なる哲学者だったのである。このことによって私は本質の重要性を学び、本質と現象について思索した私なりの理解を創造した。それがその後の私の人生のバックボーンとなったわけである。

私は林を飛び回る鳥達を見ながら、これが本質なのかと考えた。枝々が林立する中を、木にぶつからずにハイスピードで飛び去っていく。あのスピードで次の木々が迫るのを瞬時に判断する能力は、只々驚くばかりである。自然から教わる本質の認識は、かけがえのないものばかりである。

私は下宿の近くのカトリック教会に行って牧師さんと議論をし、禅宗の寺を訪ねて語り、いろいろと教えていただいた。そして、新興宗教団体の本部にも行った。人が創った教えをすべて受け入れていくということに対し、ショーペンハウエルの「自分自身でものを考えることをやめることも自殺行為である」の論を正しいと考えていた私は、そこでそれを提言したが、全く波長は合わず。「皆さん方は眠っているのではないか」と言い「失礼します」と玄関から飛び出した。要は逃げ出した訳である。

ある日禅宗の鎌倉円覚寺に行こうとした。まず鶴岡八幡宮に行き、鎌倉駅から10円切符を買って電車に乗ったのだが、もう帰ろうと思い北鎌倉駅では下車せずに帰ってきた。すると川崎駅、品川駅でも駅員が階段の降り口に立っていて、それぞれ何人かの行列をつくっていた。新橋駅にはいなかったので下車したが、階段の下に駅員がいて行列ができていた。夏休みだったのでキセル退治をやっていたのである。

私は自分の足取りを懸命に説明したが受け入れてもらえず、キセル乗車現行犯として買ったばかりの三ヶ月定期と、鎌倉駅から新橋駅までの乗車賃を通常の三倍以上没収され、大変なことになってしまった。

ここからは、また次号に続きます。

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