巻頭言
新たなスタート
和田光征
WADA KOHSEI
新聞の編集長が独立して、そこに小高さんという人が編集長として入社してきた。話は面白いし、気合が入っていて、ビジョンをしっかり持っていて全員が惚れこんでいた。よく飲みに行っては、手を腰において銘々歌わされ、あっという間に時間が流れていった。
そんな彼が私に「和田さんは都議会議員になれるよ」といつも言い、「何で国会議員じゃないんですか」と返すと、「そこまではなぁ」と言い、皆で大笑いしたのだった。
その小高さんが中心になって新聞チームが独立した。私も声を掛けられたが首をタテにふらなかった。
雑誌の編集長の村田さんが小高さんの追求によって68年夏の終わり頃退社してしまい、その時、社長は「彼がいなければ雑誌ができない」と言った。私は前述したようにかなり勉強を積み、世間知らずにも自分なりの力を確信していたので、「社長、私がやれますよ」と言った。社長は「君でほんとに大丈夫なのか、できるのか」と念押しをする。私は重なるその言葉を聞きながらますます自信を増幅させ「やれます」と断言した。「そうか、ならやってみろ」と結論づけた。私を採用してくれたのは社長である。それを裏切ることなど私の中には全くない。ともかく頑張ってやり抜こうと思った。
そうさせたもうひとつの理由があった。会社には二人の年配の女性社員がいて、私は入社以来ずっと、元気のいい方が社長夫人だと思っていた。ところが大人しい人が社長夫人だと教えられた。
ともかく静かに黙々と仕事をされ、夕刻になると社長を車で迎えに行く…。社長は体型的にやや肥満形で、膝関節に水がたまり、会社を休むことも多かった。そんな折も強い意志で夫人は仕事をこなしていた。
新聞チームが辞めると、私と短大出の二十歳の女子社員と夫人の三人になった。ある時夫人から「お金がない」と言われ、私は「1ヵ月いくらあればいいんですか」と言うと、400万円だと打ち明けられた。幸い私は不動産のセールスを3カ月ばかりやって、一応成功を収めていたので、400万円と言うお金が小さく思えたのだった。
「大丈夫です。私が何とかします」と言った。2週間後には200万円を用意し、さらに2週間後に200万円を稼いで400万円となった。夫人は只々驚いていたが「私がしっかりやりますから心配いりません」と軽口を叩いた。翌日、寝込んでいた社長が出社してきて、最上の言葉で褒めてくれた。夫人が帰宅して私のことを話したのである。夫人もすっかり明るくなり、社長も出社し、色々とアドバイスをいただいた。会社らしくなってきた。
一寸話は遡るが、私は村田さんに「一日時間を下さい」と言った。「何をやるんだ」と聞かれたので、「営業に行ってきます」と言うと、村田さんは大喜びで励ましてくれた。私は入社して様子をじっと見ていて、この会社は営業が弱いと思っていた。編集職が進んで営業もやることは一般的ではなかった時だけに、社内はなぜか盛り上がっていた。私は私で勝負に出たわけである。
いよいよ、私の編集者、営業マンとしての戦いが始まった。25歳の初秋だった。