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巻頭言

月刊「オーディオ専科」発刊

和田光征
WADA KOHSEI

月刊誌「ラジオテレビ産業」1970年の6月号の表紙に「オーディオ専科特設」と表記し、トータル130ページの半分以上をオーディオ関係の記事で構成した。読者ターゲットをオーディオメーカー、販売店に絞り、振込用紙を入れた見本誌を配って購読の注文を受け付けたところ、配送したほぼ全社からのご注文を頂いた。そして各メーカーや商社からの広告出稿も順調に推移し、業界では専門雑誌として定着した。

1972年の5月号で、雑誌の名称を「オーディオ専科」として刊行。出来上がった雑誌を下谷郵便局に搬入したところ、この雑誌名で第三種郵便の登録がなく発送を拒否され、驚愕した。何とかならないかと交渉しても、できないの一辺倒であった。私は自分の無知を恥じたが後の祭りで、大変なことになったと悔いて泣きそうだった。

すると局の奥の方から上司らしき局員が来て、「すぐ申請しなさい」と申請用紙を渡してくれた。私は走れば15分くらいの社へ急いで帰った。社長からも大目玉をもらいながら申請書が出来上がった。すぐに下谷郵便局へ走っていくとその場で認可していただき、雑誌を無事に発送することができた。あの局員の方のおかげである。大失態だったが、とんでもなくいい勉強になった。以来、そうしたことは皆無だったし、迷惑をかけた分の仕事はしっかりとこなしていった。

雑誌づくりでは読者の方々からのアンケート回答を何よりも重要視し、気に入らない点を書いてくださった方には電話をかけ詳細を聞き出し、誌面に反映させる。そうして読者志向を徹底させていった。

当時の私の日課は、会社に行き、出張のない時は午前中に入稿作業、午後は広告営業と取材。原稿書きは帰宅後、遅い時は夜中の3時を回っていた。それでも仕事が楽しくて仕方がなかったのは、三度の飯よりも編集が好きだったからである。そしてあの時の郵便局の上司らしき人から助け舟を出してもらったように、私はいつしか多くの方々から様々な支援を頂戴することとなった。

私はそもそもオーディオマニアではなかったので、オーディオ機器を見ると苦手意識からいつも身震いを起こしていたが、多くの皆さんに支えられてだんだんと一人前になっていった。しかしやはり専門的なことは分からなかった。岩間社長は、マイクロ精機社長の小宮さんから「トランジスタ技術」で古家秀のペンネームで執筆していた30代後半の斎藤宏嗣さんを紹介いただき、斎藤先生と岩間社長、私で会社近くにあった蟹やで会食をした。そこで快諾をいただき、その後斎藤先生には小社の技術担当として、多くの記事執筆とアドバイスをいただいたが、これが「オーディオ専科」成長の決定打となった。斎藤先生には今でも感謝でいっぱいである。

第三種郵便が認可されたことが結果として「オーディオ専科」の発行を決定づけ、本誌は72年6月号から正式に雑誌としてのスタートを切った。表紙は岩間社長の友人である芸大出身の画家でデザイナーでもある大川武夫先生が担当した。重厚な油絵の表紙は人気を博し、読者志向を徹底した雑誌づくりが人気を博した。

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