【日仏監督インタビュー/日本編2】諏訪敦彦監督
諏訪監督へのインタビューは、ぴあフィルムフェスティバルのロバート・アルトマン監督作品特集上映後に行われた。諏訪監督は、はじめに影響を受けたアルトマンの映画についてなど、語ってくれた。
− 第1回目のインタビューでは、諏訪監督がフランスのヌーヴェル・ヴァーグと出会いながら、映画の道に入っていらして、フランスで映画を撮るにいたるつながりを伺いました。今回は、男女のカップルを描いてきた諏訪さんが、そのテーマをつかまえて今までそれを持続しているのは、どうしてかということを中心に伺いたいと思います。
諏訪:そうですね。アルトマンを今みてきて、くらくらしていて。アルトマン監督の映画はすごい映画ですよ。あの頃のアメリカ映画、ヌーヴェル・ヴァーグの前のアメリカのニューシネマの影響は結構大きかったと思う。僕もそうですね。あの時代、ヌーヴェル・ヴァーグは地方にいてシネマテークもなくて、地方の高校生は普通の映画館でかかるアメリカ映画を見ていたわけですが、あの時代、社会や映画が変質しちゃってたわけですよね。それはベトナム戦争以降だけれど。アメリカだけでなく、68年の革命以降、世の中の矛盾みたいなものが全面に噴出してきた時代だったのだろうと思う。
そういうことを肌で感じていたわけではないんですが、子供だったから、ただ、そういうことを受けて、映画が単なる夢物語とか、そういうものではなくなってしまって映画が本当に地に落ちてきた。現実の人間とか、汚い面も悪い面も含めて、そういうものが全部映画の中にあらわれてくるようなものがあった。美しくきれいな別の世界の出来事ではなくて、この地上の出来事を描くというかな。そういうような時代が、何年間か訪れていたんですね。アメリカ映画の中に。それは日本映画にはない現実感というか、世界ってこんな感じなんだよなあという、人間ってこんな感じなんだよなというそういうものをすごくアメリカ映画を見たときに感じたと思うんですよ。
− 当時の大島渚さんや今村昌平さんなどの日本映画はあまり見なかったんですか?
諏訪:学生になってから見ましたけれど。大島さんの映画は同時代的には見ていなかったと思います。大島さんの映画は『戦場のメリークリスマス』とかは、見ましたけれど。今村さんとか、松竹ヌーヴェル・ヴァーグの篠田正浩、大島渚、吉田喜重の3人の人たちの映画より、アメリカ映画の方が身近だった。どっかでATGの映画もそうなんだけれど、日本の映画は、こう・・・何か非常に文学的な感じがしたのね。観念的な。アメリカ映画のタッチがリアリスティックだった。台詞なんかでも無駄なことばかり話しているんだけれど、そうだ、人生ってこういうことばかり話しているんだなあというのを、僕はむしろアメリカ映画のほうに感じたんですよ。
思春期に誰でも自分の世界を見つけようとしている時に、映画に出会うときってあるでしょう。出会ってしまうものとして。そういうものとして最初に出会ったものは、アメリカ映画だったと思うんです。
それからやっぱり、そのアメリカのニューシネマがどこから来ていたかというと、それはヨーロッパから来ていた。ニューシネマというような気運を映画の中で、最初にやったのは、やっぱりヌーヴェル・ヴァーグだったというのは後から知った。ヌーヴェル・ヴァーグが映画をがーんと革新していたものが、アメリカ映画に影響を与えていたところがあるわけです。
ヌーヴェル・ヴァーグはかなりいろいろなものを見ました。ゴダールだけじゃなくて。『はなされるギャング』(注:諏訪監督が学生時代に製作し、ぴあフィルムフェスティバルに応募し入賞した作品)とかは、非常に強いゴダールの影響があって。影響というより、真似みたいなものですけれど。だけど、ゴダールだけじゃなくて、ヌーヴェル・ヴァーグの連中が持っていた映画に対するアプローチには、すごく刺激を受けたと思いますね。
その当時、今、芸大や映画美学校で教えている筒井武文さんは、僕の東京造形大学の同級生で、毎週大学に日仏からフィルムを持ってきて、自主的な上映会を開いていた。これは重要な映画だといって、字幕もないのに、学生だけで見ていた。ルノワールの『黄金の馬車』の日本最終上映は、その上映会だったとか。このプリントはもうフランスに帰っちゃうからといって、筒井さんは持ってくるんですよ。
− どこの映画館に入り浸ってたんですか?
諏訪:あの頃は限られていて、フィルムセンターとか、日仏とか、アテネ・フランセとか。そういう特集上映やっているところ。だいたいみんな行っていましたよ。ただ、僕は筒井さんほどシネフィルではないのでたまにしかいかなかったけれど。
もうその頃は映画の現場をやってましたから。19の時から、22、3まで助監督をやってましたんで。最初は79年のセントテロリズムという山本政志の8ミリ映画がありまして、それにスタッフで入ったのが最初で、その次に、9月の冗談クラブバンドっていう長崎俊一さんの助監督につき、それが事故があって1年中断して、また山本監督につき、その頃は、インディペンデントで映画とっている連中は少なかったから、ほとんどみんな知り合いだったんです。山本、長崎、石井、山川、スタッフもみんな知っていたから、みんながネットワークを持ってて、つながってたんです。
それで、1回助監督をやって始まっちゃったら、ずっとつながっていって。結構続いていた。そして、映画を、生活とか、生きることに使っていくみたいなところがあった。単に鑑賞する作品を作るっていうんじゃなくて、もっと実践的なこととして映画をとっていくんだということをどこかで感じていたと思うんです。ゴダールも当時、ビデオをというものを使ってなんと言うか、ルポルタージュみたいなこともやってみたしね。ドキュメンタリーっていうんのでもないけれど、それもやっていた。ゴダールは結構、早くからビデオを積極的に使ってますよね。
(インタビューと文/山之内優子 諏訪監督ポートレイト撮影/丸谷 肇)
(日本編3へ続く)
諏訪敦彦(すわ のぶひろ)
1960年広島市出身。東京造形大学教授。2007年フランス映画祭には『不完全なふたり』を出品。脚本のない、即興的な演出で知られる。
【関連リンク】
フランス映画祭2007オフィシャルサイト
http://www.unifrance.jp/festival/index_pc.php?langue=JAPANESE
(ホームシアターファイル編集部)
− 第1回目のインタビューでは、諏訪監督がフランスのヌーヴェル・ヴァーグと出会いながら、映画の道に入っていらして、フランスで映画を撮るにいたるつながりを伺いました。今回は、男女のカップルを描いてきた諏訪さんが、そのテーマをつかまえて今までそれを持続しているのは、どうしてかということを中心に伺いたいと思います。
諏訪:そうですね。アルトマンを今みてきて、くらくらしていて。アルトマン監督の映画はすごい映画ですよ。あの頃のアメリカ映画、ヌーヴェル・ヴァーグの前のアメリカのニューシネマの影響は結構大きかったと思う。僕もそうですね。あの時代、ヌーヴェル・ヴァーグは地方にいてシネマテークもなくて、地方の高校生は普通の映画館でかかるアメリカ映画を見ていたわけですが、あの時代、社会や映画が変質しちゃってたわけですよね。それはベトナム戦争以降だけれど。アメリカだけでなく、68年の革命以降、世の中の矛盾みたいなものが全面に噴出してきた時代だったのだろうと思う。
そういうことを肌で感じていたわけではないんですが、子供だったから、ただ、そういうことを受けて、映画が単なる夢物語とか、そういうものではなくなってしまって映画が本当に地に落ちてきた。現実の人間とか、汚い面も悪い面も含めて、そういうものが全部映画の中にあらわれてくるようなものがあった。美しくきれいな別の世界の出来事ではなくて、この地上の出来事を描くというかな。そういうような時代が、何年間か訪れていたんですね。アメリカ映画の中に。それは日本映画にはない現実感というか、世界ってこんな感じなんだよなあという、人間ってこんな感じなんだよなというそういうものをすごくアメリカ映画を見たときに感じたと思うんですよ。
− 当時の大島渚さんや今村昌平さんなどの日本映画はあまり見なかったんですか?
諏訪:学生になってから見ましたけれど。大島さんの映画は同時代的には見ていなかったと思います。大島さんの映画は『戦場のメリークリスマス』とかは、見ましたけれど。今村さんとか、松竹ヌーヴェル・ヴァーグの篠田正浩、大島渚、吉田喜重の3人の人たちの映画より、アメリカ映画の方が身近だった。どっかでATGの映画もそうなんだけれど、日本の映画は、こう・・・何か非常に文学的な感じがしたのね。観念的な。アメリカ映画のタッチがリアリスティックだった。台詞なんかでも無駄なことばかり話しているんだけれど、そうだ、人生ってこういうことばかり話しているんだなあというのを、僕はむしろアメリカ映画のほうに感じたんですよ。
思春期に誰でも自分の世界を見つけようとしている時に、映画に出会うときってあるでしょう。出会ってしまうものとして。そういうものとして最初に出会ったものは、アメリカ映画だったと思うんです。
それからやっぱり、そのアメリカのニューシネマがどこから来ていたかというと、それはヨーロッパから来ていた。ニューシネマというような気運を映画の中で、最初にやったのは、やっぱりヌーヴェル・ヴァーグだったというのは後から知った。ヌーヴェル・ヴァーグが映画をがーんと革新していたものが、アメリカ映画に影響を与えていたところがあるわけです。
ヌーヴェル・ヴァーグはかなりいろいろなものを見ました。ゴダールだけじゃなくて。『はなされるギャング』(注:諏訪監督が学生時代に製作し、ぴあフィルムフェスティバルに応募し入賞した作品)とかは、非常に強いゴダールの影響があって。影響というより、真似みたいなものですけれど。だけど、ゴダールだけじゃなくて、ヌーヴェル・ヴァーグの連中が持っていた映画に対するアプローチには、すごく刺激を受けたと思いますね。
その当時、今、芸大や映画美学校で教えている筒井武文さんは、僕の東京造形大学の同級生で、毎週大学に日仏からフィルムを持ってきて、自主的な上映会を開いていた。これは重要な映画だといって、字幕もないのに、学生だけで見ていた。ルノワールの『黄金の馬車』の日本最終上映は、その上映会だったとか。このプリントはもうフランスに帰っちゃうからといって、筒井さんは持ってくるんですよ。
− どこの映画館に入り浸ってたんですか?
諏訪:あの頃は限られていて、フィルムセンターとか、日仏とか、アテネ・フランセとか。そういう特集上映やっているところ。だいたいみんな行っていましたよ。ただ、僕は筒井さんほどシネフィルではないのでたまにしかいかなかったけれど。
もうその頃は映画の現場をやってましたから。19の時から、22、3まで助監督をやってましたんで。最初は79年のセントテロリズムという山本政志の8ミリ映画がありまして、それにスタッフで入ったのが最初で、その次に、9月の冗談クラブバンドっていう長崎俊一さんの助監督につき、それが事故があって1年中断して、また山本監督につき、その頃は、インディペンデントで映画とっている連中は少なかったから、ほとんどみんな知り合いだったんです。山本、長崎、石井、山川、スタッフもみんな知っていたから、みんながネットワークを持ってて、つながってたんです。
それで、1回助監督をやって始まっちゃったら、ずっとつながっていって。結構続いていた。そして、映画を、生活とか、生きることに使っていくみたいなところがあった。単に鑑賞する作品を作るっていうんじゃなくて、もっと実践的なこととして映画をとっていくんだということをどこかで感じていたと思うんです。ゴダールも当時、ビデオをというものを使ってなんと言うか、ルポルタージュみたいなこともやってみたしね。ドキュメンタリーっていうんのでもないけれど、それもやっていた。ゴダールは結構、早くからビデオを積極的に使ってますよね。
(インタビューと文/山之内優子 諏訪監督ポートレイト撮影/丸谷 肇)
(日本編3へ続く)
諏訪敦彦(すわ のぶひろ)
1960年広島市出身。東京造形大学教授。2007年フランス映画祭には『不完全なふたり』を出品。脚本のない、即興的な演出で知られる。
【関連リンク】
フランス映画祭2007オフィシャルサイト
http://www.unifrance.jp/festival/index_pc.php?langue=JAPANESE
(ホームシアターファイル編集部)