HOME > レビュー > ワーグナーは舞台かレコードか? ー哲学者クロサキ、ベルリンで『ニーベルングの指環』を全夜観劇する(上)

神々しい崇高さに溢れる舞台を観劇

ワーグナーは舞台かレコードか? ー哲学者クロサキ、ベルリンで『ニーベルングの指環』を全夜観劇する(上)

公開日 2024/12/31 07:00 黒崎政男
  • Twitter
  • FaceBook
  • LINE
今年5月にベルリンで開催された、ワーグナー『ニーベルングの指環』全四夜公演。あまりにも重厚長大なストーリーのため、全四夜通しで演奏されることも珍しいオペラの超大作である。その公演を、哲学者の黒崎政男氏が鑑賞。普段は「ワーグナーをレコードで楽しむことが多い」オーディオ愛好家の黒崎氏は『指環』をどう見たのか、渾身のレポートをお届けする。

ドイッチェ・オーパー・ベルリンの会場前の黒崎氏

■約20年ぶりに観劇する『ニーベルングの指環』全公演



しばらくぶりのワーグナー『指環』全曲観劇である。5月にベルリンで上演されるシュテファン・ヘアハイム演出『ニーベルングの指環』全四夜を、ドイッチェ・オーパー・ベルリン(Deutsche Oper Berlin)で観ることになったのである。

ベルリン市の東部地区に位置する、ベルリン・ドイッチェ・オーパー

よく考えてみれば、指環を全四夜通しで観る、という体験は、約40年前このドイッチェ・オーパー・ベルリンが、東京公演を行った1987年公演(ゲッツ・フリードリッヒ演出)が私にとって初めてのことだった。それから1991年ニューヨークに行って観たメトロポリタン・オペラ公演(ジェームス・レヴァイン指揮)、と2回しかない。その後は『ワルキューレ』や『ジークフリート』など単独でしばしば観ていた。

しかして、私はオーディオ愛好家なので、LPレコードやCDで『指環』を聴くということのほうが、圧倒的に多かった。名プロデューサー、カルショーが録音したショルティ+ウィーンフィル盤(1957-65年)、あるいはベーム+バイロイト盤(1966-67年)、さらには、カラヤン+ベルリンフィル盤(1966-70年)。モノラルながらフルトヴェングラーのミラノ・スカラ座盤(1950年)。

だから正直なところ、『指環』といえば、歴代の大指揮者が大歌手で残した名演を聴くのが主であり、オーディオこそが私の『ニーベルングの指環』だったのである。

5月のミュンヘンで行われたハイエンドオーディオショウの取材と合わせて、オーディオ評論家の山之内 正さんから、「ちょうどその時、ベルリンで『指環』通しがありますよ。ご一緒しませんか?」という魅惑のお誘いがあった。山之内さんとは、ショルティ盤『指環』について対談をしたばかりだった。それで、ドイッチェ・オーパー・ベルリンで40年ぶりに指環を観劇することになったのである。

■純粋なワーグナーはオーディオの中にある



最近のオペラは、演出家が表面に出て、どんどん奇抜な演出を行うようになっている。ワーグナー演出でいえば、そのきっかけは1976年にパトリス・シェローが、ラインの乙女を売春婦に変え、ネクタイをした資本家で神々を表現したりと、当時あまりに衝撃的だった演出で登場してからである。

オペラは「歌手の時代」から「指揮者中心の時代」、そして「演出家中心の時代」へと変化していった。かつては歌手フラグスタートの歌う「ワルキューレ」であり、次にはフルトヴェングラーの指揮する「トリスタンとイゾルデ」であり、次には、ワーグナーの孫たちの演出による「ヴィーラント様式」そして、演出家パトリス・シェローのバイロイト「指環」というように。「演出家の時代」への変化である。それは、あるいは演出家ゲッツ・フリードリッヒの「トンネル・リング」に繋がっていった。

現在、オペラを生で観るとしたら、それは、演出家誰それのワーグナーを観る、ということになってしまうわけだ。シェロー以来、読み替えの演出が続き、奇をてらった演出を求めて、おそらくはクオリティ劣化の状態に至っているように思う。

だから、『指環』を楽しむなら、視覚的共雑物が入った生のオペラを観るより、純粋に音楽だけのレコードに向き合うほうがはるかに純度の高いワーグナーを味わえる。「純粋なワーグナーはオーディオの中にこそあり」と、こう思ってしまう私であった。

■ワーグナーが目指した「総合芸術」と純粋音楽主義



これはワーグナーが目指した総合芸術、という発想がそもそも根本的に抱えている問題でもある。ワーグナーの音楽観は、ショーペンハウアーの音楽哲学に極めて深い影響を受けている。ワーグナーは感激してショーペンハウアーを読み、自分の総合芸術としての「楽劇」を構築していったのである。

ショーペンハウアーの音楽哲学とは、簡単に言えば、あらゆる芸術(絵画や詩や建築などなど)のうちで、音楽こそが最高のものであり、それはイデアの写しではなく、意志そのものの表現、となっているからである(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第一巻「音楽の形而上学」の章を参照)。

この場合、ショーペンハウアーが音楽ということで考えたのは、<絶対音楽>主義、つまり純粋に音楽は、言葉やなんらかの情景を写したり、詩に依存したりするものではなく、音楽そのもので成立するものでなければならない、とするものだった。

なぜかワーグナーはこの音楽純粋主義たるショーペンハウアーから出発して、<総合芸術>としての音楽にたどり着いた。このことに関しては、研究者の間でもさまざまな意見がある。例えば「ワーグナーがショーペンハウアーの音楽論を核にしながら、声楽的な楽劇論を打ち立てたことは大きな矛盾を含んでいる」(三浦信一郎)などである。

だから、ワーグナーを味わうのに、舞台のヴィジュアルも含めて全部なのか、ワーグナーの音楽のみを取り出したレコードで聴くべきなのかは、そもそもワーグナー芸術のうちにも内在しているジレンマなのである。

ワーグナーを舞台で味わうかレコードで聴くか、という問題を多少大袈裟な話にまで拡張してしまった、かもしれない。

ともかく、ともかく、ワーグナーを舞台で味わうことに躊躇していた私だが、今回はレコードではないワーグナーをベルリンに味わいに来たわけである。

開幕直前の劇場の様子。ピアノが一台ぽつんと置いてあるだけの舞台

■序夜『ラインの黄金』これはお芝居なのだ、というメタの視点



さて、ついに始まる。だが、コントラバスの持続音にファゴットが乗りさらにホルンが加わる、というあの冒頭の印象深い音が聴こえてこない。無言で移民の人々と思われる集団がそれぞれに革カバンを手にさげながら舞台を横切っていく。そしてピアノの方に向かっていく。しばらく無音のままである。

『ニーベルングの指環』パンフレットより(以下同様)。「ラインの黄金」冒頭のシーン

劇は始まっているのだが、ワーグナーの音楽はまだ始まっていない。そんな時間がいくらか続く。この無音の時間はいったいなんなのだ。「ラインの黄金」は始まったのか。たしかに演出家の見せ場としては、音楽の始まる前が一番好きな表現が自由にできる場所だ。

「うーん、演出家の表現過剰な舞台を見せられるのかあ」というのがファーストインプレッションだった。

「ラインの黄金」は、ラインの3人の乙女とニーベルング族のアルベリッヒが登場することで始まるのだが、その移民の集団の人々のなかから、コートを脱ぎ、ピアノの上に飛び乗ることで3人の乙女が登場する。また集団の中のひとりの男が舞台下手のほうに出て、鏡を持ってなにやら化粧を始める。それはピエロかジョーカーのような顔になっていき、彼がアルベリッヒなのだ、ということが分かる。

アルベリッヒと3人のラインの乙女

こんなふうな始まりなのだ。すでにこの時点で、この楽劇『ニーベルングの指環』は、人々が役者となり演じているひとつのお芝居なのですよ、というメッセージを発しているように思われる。劇中劇的な視点というか、一つ引いたメタの視点が導入されている。

これはこの演出全体についても言えることだ。たとえば、最後『神々の黄昏』のエンディングは、ブリュンヒルデが燃えさかる火のなかに愛馬グラーネとともに飛び込み、ハーゲンが指環!と叫んで終わる、という超感動的なシーンなのだが、そこでも最後の最後で、演出家ヘアハイムは、モップで舞台を掃除する掃除人をどうどうと登場させる。お芝居は終わってあとは舞台を掃除する、というのが、最後の幕切れなのである。最最初と最最後を、劇中劇的な枠で囲っている。

■レコードでは再現できない大音量と美しさに感動



こんなことに気を取られながらも、始まった音楽は、冒頭からして感激ものだった。コントラバスの持続音とファゴットの重なりは、オーディオで聴くと、ダイナミックレンジの問題からか、ものすごいピアニッシモで始まる。ほとんどレコードでは聴き取れないくらいの鳴りだ。

ところがここでは、最初からメゾフォルテぐらいの大きさで堂々と美しく鳴っている。なんと気持ちいいオケの音なのだろう。ここに美しいホルンの音が加わり、さらに弦楽器群が加わって、最高潮に。すばらしいフォルテシモ、というか、フォルテフォルテフォルテシモだ!オーディオでは絶対に聴けないスケールと音量だ。これが聴けただけでも大満足(なんと、欲がない人間なのだろう、私は)。

ローゲ(トーマス・ブロンデル/テナー)が、「虫歯の悪魔」かあるいは「メフィストフェレス」のような出で立ちで舞台を動き回る。演出家はこの「ラインの黄金」の中心人物をローゲに設定しようとしているようだ。演じるテナー、ブロンデルの声も動きもとてもよい出来である。主役は、神ヴォータンでもなくニーベルング族のアルベリッヒでもない。トリックスターのローゲである。決してワーグナーから外れた解釈ではない。

しかもこうすることによって、通常の主役ヴォータンとアルベリッヒを外側から描く、つまり、外から客観視するような距離感も発生してくる。これは劇中劇的視点、メタの視点を取ろうとするヘアハイムの目論見にうまく合致するものだ。

左からローゲ、アルベリッヒ、ヴォータン。指環を取り合うシーン

この「ラインの黄金」ラストは、ヴォータンが剣ノートゥングを世界樹から引き抜く、というシーンだ。それと同時に大きく2人の胎児が胎内にいる様子が、大きなスクリーン代わりの美しい巨大な布に映し出される。それはキューブリック「2001年宇宙の旅」でのラストシーンの胎児の映像を明らかに意識している。まるでそっくりな構図だ。

ただし、こちらは2人。つまり、次の夜に続く「ワルキューレ」の冒頭の2人の登場人物、ジークムントとジークムンデが兄妹で生まれてくることを、明示的に予告しているのである。ヘアハイムは、ワーグナーの台本で暗示的に示されていることを必ず明示化して提示してくる。このヘアハイムの明示化の問題は、後半で少しちゃんと考えてみることにしよう。

■プロジェクション・マッピングの使い方は崇高ささえ感じる



2時間半の舞台があっという間に終わってしまった。最初は、過剰演出の舞台か、と心配したが、だんだんにヘアハイムの演出に慣れていく。カバンの堆積でさまざまなものを表現する手法は成功しているし、また巨大な動く布にプロジェクション・マッピングする光の使い方の手法は、神々しさ・崇高ささえ感じさせて心地よかった。

プロジェクション・マッピングによる光の活用方法も感動的

ヘアハイムの演出では、基本的に舞台には、登場人物以外にさまざまな人々が、無言の演技のためだけに乗っている。だから全体が群像劇のように見える。その人々はドイツの歴史を表す移民の人々のようであり、また劇と観客を繋ぐ中間者(たとえばギリシャ悲劇におけるコロスの人々)にもなり、また突然みな下着姿になって露骨なセックスシーンが繰り広げられることもある。

ここでは、見慣れない光景が繰り広げられるために、聴き慣れた音楽との間で、私の中で葛藤が起こる。この違和感こそ演出家の狙いだろうし、ワーグナーへの新たな意味づけを発生させるものであろう。これが有意味なものになるかどうかは、ひとえに演出家の作品に対する理解力と力量にかかっていることになる。

こうやって一夜目(序夜)が終了した。

■第一夜「ワルキューレ」 奇妙な登場人物。フンディングの子供?



さて二夜目、「ワルキューレ」が始まる。フンディングの館で、兄ジークムントが妹ジークリンデと出会う場面である。奇妙な人物が、2人だけのはずの場面に登場している。最初に2人、フンディングが登場して3人、また2人、というのがこの一幕の設定なのに、1人いつもこの場面に加わっている。ナイフをジークムントに振りかざしたり、いろいろしている。「いったい誰だこれは」と思ってパンフレットを見ると、Hundinglingという登場人物が載っている。えっと、フンディングの子供!?なんとヘアハイムは、ここでも暗示的なことを極端に明示化しようとしている。

左から、フリッカ、ヴォータン、ブリュンヒルデ

ジークリンデは、無理矢理フンディングの妻にされ時間も経っているのだから、子供があってもおかしくないだろう、というわけだろう。そしてギリシャ悲劇「王女メディア」の顰みに(あるいは日本では四世鶴屋南北の「桜姫東文章」)ならってか、自らの子を殺す、というシーンもついている。このあとの、ジークムントの子を宿していると聞かされて、とつぜん生きようとする強い意志が芽生える、ということを際立たせるための演出であったのかもしれない。

非難覚悟でのヘアハイムの決断だったのだろうとは思うが、私はこのフンディングの子供の登場はやはり不要であったと思う。ふたりだけで謎が解けていく高揚感、春の風がふっと部屋に入ってくるときの二人の驚き(「冬の嵐は過ぎ去り」)、そんないいシーンに、ちょろちょろと子供が走り回っているのはうるさいし興ざめでもある。

本来は3人のシーンなのに、4人いる。架空のフンディングの子供(右から2人目)が加わっている

この<フンディングの子供>だけは唯一、私の気に入らない演出だった。しかし、このように気になる演出はあるにせよ、全体としてヘアハイムの演出はだんだん気に入ってきて、(不自然に猥褻なシーンが多用されていることを除けば)ほとんど魅力的な演出だ、と最終的には思うにいたった。

■フリッカ登場 レコードではいつも飛ばしていた!



今回、フリッカの登場する場面は、とても長く、正直に言えば音楽も退屈に感じた。ヴォータンの妻のフリッカは、そもそもあまり感じがいいわけではないし、しかもあまり聴き覚えのない音楽が長々と続く。うっかりすると眠くさえなる。

そして、そっかあ、と思った。私がレコードで『指環』を聴くときには、「ワルキューレ」なら一幕なら全部聴くが、二幕なら四場「死の告知」、三幕なら「ワルキューレの騎行」とラストの「ヴォータンの別れ」などを選んで聴いていたのだった。自分で主体的に「指環」を聴こう、ということは、実は選択が働いていて、好みでない箇所は、飛ばしていて聴かないのであった。

舞台ではそういうわけにはいかない。フリッカの「正論」や「小言」をいやでも聴かせられる。だんだんヴォータンの気持ちになってくる。ワーグナーだって、フリッカのことは好きでなかったに違いない。だって、フリッカの場面の音楽は魅力的じゃないもの。とこう思って耐えていた。

■圧巻の終幕、最高の「ワルキューレ」



最後、三幕、ミーメがジークリンデのお腹から嬰児ジークフリートを取り出す、というシーン。台本にはまったくないシーンだが、「ジークフリート」ではこれが事実であることが分かる。それを先取りして「ワルキューレ」の末尾に付けているのは、苦笑してしまうが、ヘアハイムはなんと丁寧に誠実に、全体のつながりを明確につけようとしているのだろう。

ラストシーン。ミーメが嬰児ジークフリートをとりあげる

それにしても素晴らしい三幕だった。演出のさまざまな夾雑物を越えて、おそらくずっと記憶に残る終幕だった。「ワルキューレ」はやっぱりすごい。具体的な悩みや葛藤やジレンマでいやというほど人間くさいドラマが展開されているのに、最後には、人類的カタルシスの次元にまで我々を連れて行ってくれる。熱のこもったドイッチェ・オーパー・ベルリンの雄渾な演奏と、ヴォータンのデレク・ウエルトンというバスの素晴らしい歌唱のおかげだ。

このヴォータンの声は、むしろ明るめで、私がよく聴き慣れているハンス・ホッターの渋く暗い声とは正反対なのだが、娘ブリュンヒルデに対する愛情、神々の没落の予感などがこもった万感迫る情感豊かな歌唱だった。セットもカバンを多用した豪華なもので光の使い方も神々しい崇高さに溢れていた。

「ワルキューレ」終幕。「ヴォータンの別れ」の場面

炎をヘアハイムは布とプロジェクション・マッピングで見事に表現しているが、40年前のゲッツ・フリードリッヒの演出では、東京文化会館の中で、実際の火を焚いていたことを思い出す。(続く)

「ワルキューレ」当日のカーテンコール

この記事をシェアする

  • Twitter
  • FaceBook
  • LINE

関連リンク