立体映像ジャーナリスト・大口孝之氏が解説
今度こそ本当に普及するのか?「3Dブーム」の今までとこれから【前編】過去にも数度、3Dブームが存在していた
「3D元年」と言われる今年。映画『アバター』の3Dが大ヒットを記録したほか、パナソニックやソニー、サムスンなどから3Dテレビが登場。3D放送開始も続々と決まるなど活発な様相を呈しています。でも3Dブームって、過去にもあったことはご存じですか? 今回、立体映像ジャーナリストの大口孝之氏が、3Dの歴史を紐解き、現在の3Dブームが定着するカギを探ります。
※文中資料提供:大口孝之
■知ってた? 過去にも存在していた「3Dブーム」
「3D」という言葉を聞かない日がないほど、立体映像が注目を浴びています。今年は「3D元年」と言われ、映画では『アバター』(2009)に続いて、海外で『アリス・イン・ワンダーランド』(2010)が大ヒットを記録しました。さらにパナソニック、ソニー、サムスンなど、各社から一斉に家庭用3Dテレビも発表されています。
このようにかつてない「3Dブーム」の様相を帯びてきましたが、実は過去にもこうした出来事は頻繁に起きていたことはご存じでしょうか? さらに今回、各メーカーが3Dテレビに採用した技術も、基本は大昔から存在していたのです!
では、なぜ過去の3Dブームは廃れてしまったのでしょう? この記事では、これまでの3D技術と流行現象を振り返り、そのブームが廃れてしまった要因を分析します。さらに、今回の3Dブームを再び失敗に終わらせないための、秘策も探ってみたいと思います。
■立体映像は19世紀から存在していた
静止画における立体視技術は、1832年に英国で発表されました。すると、これを動かそうというアイディアも、1850年代に多数登場します。下の図は、1859年にベルギーで考案された、2枚のゾートロープを連動させる装置です。つまり、最初の映画システムである「シネマトグラフ」が公開される40年以上も前に、動く立体映像が登場していたのです。
問題は、それを多くの人に同時に体験させる手法を、考え出さないといけなかったことです。そこで補色関係にある2色に染色した画像を、同じ色の透明フィルターを通して鑑賞する「アナグリフ方式」が、1853年にドイツで考案され、1858年には赤と緑のフィルターを用いた3D幻灯ショーがフランスで行われています。
■1920年代、ラジオの登場が映画に変革をもたらした − 3D長編映画の登場
20世紀に入ると、映画が爆発的に普及していきます。最初はアスペクト比4対3で白黒、サイレントでした。しかし1920年に最初のラジオ局KDKAが開局すると、それまで娯楽の王様だった映画産業が危機感を抱きます。家庭に直接届けられるというメディアの出現は、まさに驚異だったわけです。
そこで当時の最新テクノロジーが総動員されました。例えば、大型フィルム、マルチスクリーン、アナモフィックレンズによるワイドスクリーンなどのアイディアに交じって、2色カラーというものが登場しました。するとこの技術を応用して、赤と青の眼鏡を用いる「アナグリフ立体映画」が1922年に登場し、1時間16分の長編劇映画『The Power of Love』が展示会向けに公開されました。そしてこれに刺激されるように、いくつものアナグリフ短編映画が20年代前半に作られます。それらは「Plasticon」「Plastigrams」「Stereoscopiks」などといったブランドネームで人気を呼びました。
■3Dテレビに採用されたアクティブ・ステレオ方式は1920年代からあった
このアナグリフと、ほぼ同時期に実用化されたのが、なんと「アクティブ・ステレオ方式」です。つまり、現在のパナソニック、ソニーなどが採用している液晶シャッターグラスと同じ原理に基づくものです。もちろん液晶なんてものは存在していませんから、まだメカニカルなシャッターを用いていました。
そのアイディア自体は1898年に生まれており、左右の映像を交互にプリントした1本のフィルムを、電磁石による機械式シャッターで鑑賞するという方式でした。実際に劇場で興行されたのは1922年で、発明家のローレンス・ハモンドがニューヨークのセルウィン劇場で試みています。ハモンドのメガネはモーターによりアルミニウム製のシャッターを観客の目の前で毎分1500回、回転させるというものでした。
しかし20年代の立体映画ブームは、他のライバルたちと同様に終息してしまいます。その最大の理由は、映画に音声を付けるトーキーの出現で、さらに世界大恐慌が追い打ちをかけました。しかし立体映画そのものが、見世物の域を出られなかったのも原因の1つでした。
■1950年頃に第1次立体映画ブームが到来
アメリカでは、1950年ごろから急速にテレビが家庭に普及し始めます。そしてそれに反比例するように、映画館への入場者は減っていき、劇場数も減少しました。ハリウッドはこの状況に危機感を感じ、何らかの対抗策を必要としていました。
やがてアーチ・オボラーという人物がこれで『ブワナの悪魔』(1952)という長編立体映画を制作し、作品自体は愚作でしたが大ヒットを記録します。ハリウッドは、これこそ映画業界を救う救世主だと騒ぎ立て、そして全世界的に立体映画ブームが巻き起りました。
上のグラフは、1950年代の第1次立体映画ブームの時期に、世界で公開された立体映画の本数を表したものです。ちなみにこの時期の立体映画は、よく言われるようなアナグリフ式ではなく、すべて直線偏光フィルターを用いる「パッシブ・ステレオ方式」(今日のIMAX(R)デジタルに採用されている方式)が用いられていました。
しかし、同時期に登場したシネマスコープとの競争に敗れ、1955年から一気に下火になってしまいます。つまりトーキーに敗れた20年代と似た理由があったのですが、立体映画自体に作品的な魅力が欠けていた点でも共通していました。
※文中資料提供:大口孝之
■知ってた? 過去にも存在していた「3Dブーム」
「3D」という言葉を聞かない日がないほど、立体映像が注目を浴びています。今年は「3D元年」と言われ、映画では『アバター』(2009)に続いて、海外で『アリス・イン・ワンダーランド』(2010)が大ヒットを記録しました。さらにパナソニック、ソニー、サムスンなど、各社から一斉に家庭用3Dテレビも発表されています。
このようにかつてない「3Dブーム」の様相を帯びてきましたが、実は過去にもこうした出来事は頻繁に起きていたことはご存じでしょうか? さらに今回、各メーカーが3Dテレビに採用した技術も、基本は大昔から存在していたのです!
では、なぜ過去の3Dブームは廃れてしまったのでしょう? この記事では、これまでの3D技術と流行現象を振り返り、そのブームが廃れてしまった要因を分析します。さらに、今回の3Dブームを再び失敗に終わらせないための、秘策も探ってみたいと思います。
■立体映像は19世紀から存在していた
静止画における立体視技術は、1832年に英国で発表されました。すると、これを動かそうというアイディアも、1850年代に多数登場します。下の図は、1859年にベルギーで考案された、2枚のゾートロープを連動させる装置です。つまり、最初の映画システムである「シネマトグラフ」が公開される40年以上も前に、動く立体映像が登場していたのです。
問題は、それを多くの人に同時に体験させる手法を、考え出さないといけなかったことです。そこで補色関係にある2色に染色した画像を、同じ色の透明フィルターを通して鑑賞する「アナグリフ方式」が、1853年にドイツで考案され、1858年には赤と緑のフィルターを用いた3D幻灯ショーがフランスで行われています。
■1920年代、ラジオの登場が映画に変革をもたらした − 3D長編映画の登場
20世紀に入ると、映画が爆発的に普及していきます。最初はアスペクト比4対3で白黒、サイレントでした。しかし1920年に最初のラジオ局KDKAが開局すると、それまで娯楽の王様だった映画産業が危機感を抱きます。家庭に直接届けられるというメディアの出現は、まさに驚異だったわけです。
そこで当時の最新テクノロジーが総動員されました。例えば、大型フィルム、マルチスクリーン、アナモフィックレンズによるワイドスクリーンなどのアイディアに交じって、2色カラーというものが登場しました。するとこの技術を応用して、赤と青の眼鏡を用いる「アナグリフ立体映画」が1922年に登場し、1時間16分の長編劇映画『The Power of Love』が展示会向けに公開されました。そしてこれに刺激されるように、いくつものアナグリフ短編映画が20年代前半に作られます。それらは「Plasticon」「Plastigrams」「Stereoscopiks」などといったブランドネームで人気を呼びました。
■3Dテレビに採用されたアクティブ・ステレオ方式は1920年代からあった
このアナグリフと、ほぼ同時期に実用化されたのが、なんと「アクティブ・ステレオ方式」です。つまり、現在のパナソニック、ソニーなどが採用している液晶シャッターグラスと同じ原理に基づくものです。もちろん液晶なんてものは存在していませんから、まだメカニカルなシャッターを用いていました。
そのアイディア自体は1898年に生まれており、左右の映像を交互にプリントした1本のフィルムを、電磁石による機械式シャッターで鑑賞するという方式でした。実際に劇場で興行されたのは1922年で、発明家のローレンス・ハモンドがニューヨークのセルウィン劇場で試みています。ハモンドのメガネはモーターによりアルミニウム製のシャッターを観客の目の前で毎分1500回、回転させるというものでした。
しかし20年代の立体映画ブームは、他のライバルたちと同様に終息してしまいます。その最大の理由は、映画に音声を付けるトーキーの出現で、さらに世界大恐慌が追い打ちをかけました。しかし立体映画そのものが、見世物の域を出られなかったのも原因の1つでした。
■1950年頃に第1次立体映画ブームが到来
アメリカでは、1950年ごろから急速にテレビが家庭に普及し始めます。そしてそれに反比例するように、映画館への入場者は減っていき、劇場数も減少しました。ハリウッドはこの状況に危機感を感じ、何らかの対抗策を必要としていました。
やがてアーチ・オボラーという人物がこれで『ブワナの悪魔』(1952)という長編立体映画を制作し、作品自体は愚作でしたが大ヒットを記録します。ハリウッドは、これこそ映画業界を救う救世主だと騒ぎ立て、そして全世界的に立体映画ブームが巻き起りました。
上のグラフは、1950年代の第1次立体映画ブームの時期に、世界で公開された立体映画の本数を表したものです。ちなみにこの時期の立体映画は、よく言われるようなアナグリフ式ではなく、すべて直線偏光フィルターを用いる「パッシブ・ステレオ方式」(今日のIMAX(R)デジタルに採用されている方式)が用いられていました。
しかし、同時期に登場したシネマスコープとの競争に敗れ、1955年から一気に下火になってしまいます。つまりトーキーに敗れた20年代と似た理由があったのですが、立体映画自体に作品的な魅力が欠けていた点でも共通していました。
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