「ピュアオーディオ・ルネッサンス」特別対談
菅野沖彦氏、現代のオーディオを語る―前編

その目的はアートにある

  • オーディオ評論家 菅野沖彦氏 VS 音元出版社長 和田光征
  • 常に第一線で活躍をされているオーディオ評論の第一人者、菅野沖彦氏と、音元出版和田社長との対談が実現した。ピュアオーディオ復活の期待がにわかに高まっている昨今だが、現代のオーディオを取り巻く状況はどうであるか、そしてオーディオとは何であるか。原点から本質をつく言葉によって語られた対談の模様を、2号にわたり連続でお届けする。

和田  我々は今、自社の媒体を通じて3つの提言を行っています。それは「2WAYシアター宣言」、「スーパークオリティ宣言」、そして「ピュアオーディオルネッサンス」というものです。今回は菅野先生にお時間を頂戴しまして、ぜひ「ピュアオーディオルネッサンス」、オーディオ復活についての忌憚のないご意見を伺っていきたいと思います。
 昨今ではiPodを始めとするDAPと配信で音楽を楽しむ形態が一般的になる一方、メーカーの主催するイベントなどでハイクオリティサウンドに触れた若者たちが非常に感激した、という話も耳にします。
 さらに団塊の世代が定年を迎えるスタートとなる、いわゆる2007年問題を目前に控え、彼らのピュアオーディオへの回帰が期待されています。こういった昨今のオーディオを取り巻く風潮を、どのようにご覧になりますか。

菅野  いろいろな問題が複雑にあってなかなか一言で言い表すのは難しいですね。たとえばアメリカでは、やはり日本と同じようにオーディオの波が高まる現象があります。1年前はハイダウェイオーディオが盛んでしたが、今はメーカーも含め2chオーディオが一人歩きしている感があります。ここで好ましく思うのは、アメリカではホームシアターが定着していて、それがためにピュアオーディオとのセグメント分けがきちんと為されているということです。

オーディオとAVは違う明確なカテゴリー認識を

菅野  一般にはどうも、オーディオと、ホームシアターやAVといったものとのカテゴリー認識がないですね。メーカーも、販売店も、ユーザーもそうです。産業としては同じようなものですが、アートとしてのカテゴリーは全く別物です。そこを、提供する側がまずはっきりと認識しなかったと思うのですね。おそらく日本の大手電機メーカーにはアートとしてのカテゴリー認識がなく、機械として、技術があるからつくればいい、というレベルで今に至るというようなことが、混乱のもとではないかと僕は思うのです。
 コンシューマーにとってもそのあたりの認識はなかなか難しい。しかし団塊の世代が好奇心旺盛な若かりし頃、ホームシアターは存在しませんでしたから、格別の努力をしなくとも彼らはオーディオというものをひとつのカテゴリーとして認識しておられると思うのです。その後でビジュアルが出てきたわけですから、ある意味こういった時間の流れの中できちんとした認識を持たれるようになってきたのではないでしょうか。  ですから団塊の世代が趣味に戻ってくるとき、こういったカテゴリー認識が広がっていくかもしれません。若い世代というのは、生まれたときからCDが当たり前で、ホームシアターも存在していたような状態ですから、こういう人たちの感覚を我々の世代からは想像するのも難しい。また若い人たちから見ると、我々のようなオーディオの歴史を地で生きてきた、そのプロセスを想像するのは不可能のようですね。我々にとってつい最近のことですけれど、80年代初頭までメインプログラムソースであったアナログディスクというのが、若い人にとってはすでに古さを通り越して新しく魅力があるものだと受け取られているわけですから。
 またこういうパッケージメディアとしてのカテゴリーからさらに進んで、パッケージメディアが機能し、目的とする「アート」のカテゴリーが混乱している、というのが今の状況だと思いますね。一番大事なことは、カテゴリーをきちんと認識することではないでしょうか。映画も芝居も舞踊も、皆同じ。そういう見方もあるいは素直でいいかもしれないですが、やはりそれぞれを理解するためには、映画には映画の世界、舞台演劇には舞台演劇の世界、というようなカテゴリー認識が大事ではないかと思います。
 こういうものを認識すると、機器の開発だって違ってきます。機器が機能し目的とする世界を認識してこそ、はじめて明確な目的に向かって設計ができる。それをあまりにも近視眼的に、部分部分で技術的に解析して技術的に解決する、というような方法でやっているから、機能は優秀だけれども、実際にユーザーにぴたっとくる製品が生まれない、という気がします。オーディオにしてもビジュアルにしても、アートというものに対しての認識がプライオリティではないかと思いますね。
 こういうことは、82年にAVというものが登場したときに感じたことなのです。そのとき僕がびっくりしたのは、我々の仲間が急に「AV評論家」になったことです。大ショックを受けましたね。僕の身近にはたまたま、映画評論家出身だったり、子供の頃から大の映画ファンだったりするオーディオ評論家がいました。そういう人ならわかります。でも、そうでない人もAVを評論する…それが混乱であるとは誰も思っていなかった。多くのジャーナリズムも、当たり前のように僕にAV評論をやれと言うわけです。原稿依頼が当たり前のように来ましたよ。そういうようなことが事実としてあったわけです。
 これは、僕からしてみれば珍事なわけですが、世間的には珍事にならないというのは不思議でしたね。その原因がカテゴリーの認識不足ということにある、ということに僕ははじめて気がつきました。そういうことがあって、僕が2chのオーディオというものに頑なに固執しているように周りにはとられてしまったようですね。確かにオーディオにこだわりはあります。でも、固執しているわけではありません。「映像嫌い」とまで言われましたよ。でも僕はテレビも見れば、映画も見るし、決して嫌いなわけではない。音と違って映像には素人だということです。  したがって、そういう環境の中で、自分がプロフェッショナルとして世の中に自分の言うことを理解してもらうためには、どうしても、ビジュアルとオーディオを一緒くたにするのはいけないことだ、という強い思いがありました。今日から音に代わって映像の世界について簡単に書くということはあまりにもおこがましいし、すべきではないと。そりゃあ、お茶を濁すこともできますよ、キャリアがありますから。でもそれはあまりにも読者をみくびることです。

オーディオとAVとの
カテゴリー認識を
まず明確にすることが
第一歩だと思います

オーディオは自分の投影です
無限に高まるイメージを
音にフィードバックさせる
掘り下げればきりがない世界

オーディオは抽象だから感動が無限に広がる

菅野  自分のことを振り返りますと、僕は確かに絵も映画も好きだけれども、やはり音に惹かれるタイプだったと思います。AVが登場したとき初めて、僕は聴覚派なんだ、という認識を高めました。視覚と聴覚とは人間にとって優劣をつけがたい器官であって、どちらがいいというようなものではありませんけれど、確かな違いがあります。そういう中であの本を出したとき、自分の言うことを誤解されたくない、より理解してもらいたい、という情熱をもって書きましたから、周りに頑なな印象を与えてしまったのかもしれません。

和田  私はあの本を拝読して、非常に感銘を受けました。『僕にとってオーディオとは、音楽と対峙すること、自分の中にロマンとしてエネルギーを生み出すこと、それは戦いであり、身を削って行う創作行為なのだ』。『人間が感じ取ることができるありとあらゆるものを、音はすべて持っている。そしてすばらしい色合い、質感、触感、味わい、香り、漂い、力、そして感動を生む』。『そして感性の対象が自分のイメージしたとおりにコントロールできたら、これに勝るものはない。それが得られたときの喜びは、まさに僥倖だ』。ご著書の中でオーディオの本質、という表現をよくされていますが、その中に哲学が地下水のように脈々と流れているのを感じます。  我々は「ピュアオーディオルネッサンス」を訴えていきますが、オーディオとは何なのか、ということをあらためて先生の口から語っていただきたいと思うのですが。

菅野  今おっしゃっていただいたことは、ごく率直にオーディオについて自分の感じていることを言葉にしたものです。ある意味では、オーディオというのは自己の投影なのですね。音というのは、色も形もない、触ることもできない、まったくの抽象です。そういう目に見えない、インビジブルなものが持っている可能性というものは、目に見えるビジブルなものの限定を超えていると私は考えます。もちろん、映像であれ何であれ、そこからどれだけのものを得るかということは受ける人次第ですし、それが持っているものの「量」を測ることは難しい。けれども映像は具象です。具象というものは、極めて優れたものであったとしても、そこに「具体的」に表現されたもの以上のものではないのです。それに対して、音は無限のものを表現している。完全に受け手次第であり、受け手がなければ消えいってしまうものです。瞬間瞬間、消えていくのが本来のありようですから。映像は何かに刻印したら消えません。しかし有限である映像からでさえ、受け手次第で得るものは100であることもあれば1000になることは当然ですが…。
 抽象が持っている可能性は無限です。ゼロから無限まであるのです。人間の五感、と言いますが、それが総合され組み合わされたときには、五感どころか無限に豊かな感性となります。そういう先天的な人間の豊かさに、後天的な知識や養分のようなものが結びついたとき、人間には計り知れない能力が備わると思うのです。その能力と、無限の抽象との対峙によって、アートの世界がどんどん高く昇華する。そこに具象が関与すると具象の方が強いわけです。その具象で抽象が制約を受ける。その境界線が、言うなればオーディオとAVの違いだと言えるのではないでしょうか。  表現の無限の可能性をどのように受け取って、それによってどう人間の感情、喜怒哀楽、感銘が動くのか、ということがまた醍醐味です。そしてそれが繰り返しフィードバックする。無限に高まっていく自分の中のイメージを、音の表現として具体的に奏で聴き取る。そこからまた新たなイメージを創造する。その連続なんですね、オーディオというのは。それが私の言う「自己の投影」でもあり、掘り下げて行けばきりのない世界であるわけです。
 私は子供の頃からオーディオを好きでやってきましたけれど、今ますます面白く、わからない、という状況なのです。そういう自分自身の体験からしても、今申し上げたような「無限性」というのは、非常に確かな物だという実感を持っています。

「ごっこ」に止まっては目的にたどり着けない

菅野  またオーディオがさらに僕好みなところが、サイエンスとテクノロジーの産物であるということです。こんなに現代的で興味深い趣味はないのではないかと思いますね。優れた機械は高い能力を秘めていて、理想のものを育てようという意気込みと、そのための知識の拾得と努力を惜しまなければ、その人の意に添って目的である音は無限に育っていくものです。そういうところがオーディオのすばらしさなのではないか、と僕は思いますね。
 ここで陥りがちなことは、「オーディオごっこ」です。つまり手段の段階で戯れるわけです。手段ということは何か目的があるわけですから、目的までたどり着かないと意味がありません。そこで止まってしまっては勿体ない。勿体ないし、方向が逸れてしまう。オーディオというのは、手段は確かにサイエンティフィックな機械の世界であり、それだけでも興味は満たされる世界なのだけれど、それが目的とする、さらなる深遠な世界こそが、生とも違う、視覚的要素抜きの、純粋に音だけで表現する希有な音楽の世界であると言えるのではないでしょうか。

和田  団塊の人たちも帰ってきて、オーディオをやるというときにご著書を拝読すると分かるのですが、基本的な哲学がありまして、それを根底に置いた上できちんと対峙してやられているという。往々にして手段と目的、手段の段階でいろいろなものが手に入ると、そういうものを抱え込めばオーディオファイルになるという錯覚もあるでしょうけれど、実際にはそうではないですね。

菅野  ええ、そうではないです。しかし一般的には錯覚だとは思われていないですね。手段のオーディオが目的だと決めつけられているような風潮がありますね。本当はその向こうなのです。そして、オーディオコンポーネントをつくっている人がそれをどう見ているか。これを使って、音が芸術という世界を実現するということを知り、体験してつくる人のものと、手段で止まっている人たちがつくるものとは違うんですね。ただ、錯覚していても科学技術手法をちゃんと使えば物はできてしまうんです。それが、ある意味、厄介なところかもしれませんけれど。僕たちがよく、機械を通じてそれをつくった人間と対話ができるかできるような機械が欲しいんだ、そういうオーディオ機器をつくって欲しいんだ、と言いますけれど、それはそういうことなのです。機械の向こうに、はっきりとした「個」というものが存在しない機械というものは「個」ではなく、大勢の人が、たとえば株式会社のような形で存在しているというような機械は、手段止まりなのです。そのもの自体が何も発信しない。それは本当のオーディオファイルの心をつかめない機械なのではないかと思いますね。

(次号へ続く)

[著作紹介]
新レコード演奏家論
菅野沖彦氏の書き下ろしによる単行本「新レコード演奏家論」。レコード(アナログLP、CDなど)を能動的に聴く人々を「レコード演奏家」と呼び、理想的な音楽鑑賞を可能にするオーディオの世界を説き起こしている。

<新レコード演奏家論>(SS選書)
 菅野沖彦 著
 ステレオサウンド 版
 定価2,500円(税込)

◆PROFILE◆
菅野沖彦 Okihiko Sugano

1932年東京生まれ。編集者、フリーの録音制作家を経てオーディオラボを創立、1971年よりオーディオラボ・レコードを発売開始。また1950年代半ばよりオーディオに関する寄稿を開始、以後オーディオ評論家として第一線で活躍中。