巻頭言 一期一会 和田光征 私がこの業界に入ったのは昭和43年4月のことで、小社は業界紙を営む小さな新聞社だった。その中で「ラジオテレビ産業」という仰々しい誌名の雑誌編集に携わった。編集部は編集長と私。 私は編集の仕事がしたくてしかたがなく、いくつかの出版社に履歴書を送ったがことごとく断られた。そんな折、飯田橋の職安で求人募集の綴りをめくった。今日も駄目かとあきらめかけていて、ふと背後を見ると、そこには求人票が掲出してあり、「編集記者求む!」とある。記者のことはよく分からなかったが、編集という二文字に「ようやく見つけたぞ」という思いで興奮した。早速面接に行って、幸いにも夕刻に採用通知の電報がきて、翌日から出社になったわけである。 2年後だったと思う。編集長が退社することになって、人材難もあり私が編集責任を負うことになった。当時の社長が「辞職したM君がいなくなると雑誌が出せない」と嘆いていた姿を見て、「私がやれますよ」と言った。「やれるのか」というから「やれますよ」と力を込めて言った。なぜそこまで自信を込めて言ったのかといえば、編集長は私しか知らないアルバイトをしていて、その分、私に仕事が回ってきていたからだ。校了時の出張校正でも編集長は来ない。3時ごろ電話がかかって「どう?」、私は度重なる編集長の無責任さにあきれ、憤りに似たものをもっていたので、「もう少しで終わりますよ」と言っていつも夜中まで一人で取り組む、というパターンが多かった。しかし、今でもその編集長に感謝しているのは、そのお陰で短い期間で編集の仕事を覚えることができたということである。同時に私だったらスタッフを可愛がる、という思いもあった。そんな自信が「やれます」という言葉になったわけである。 その1年後、オーディオ専門店を育成するという目的で「オーディオ専科」を創刊するわけである。創刊時、社長に「誰に読ませるのですか」と質問すると、「オーディオ専門店だ」という答え。私は生意気に、「誰が読者かが決まっていれば成功しますよ」と言った。ターゲットが明確であれば、失敗など考えられなかった。とは言うものの、テレオンの鈴木七之丞社長、ダイナミックオーディオの荻原統志郎社長、ディスクユニオンの広畑照一社長、光陽電気の河野康社長、横浜サウンドの樋口信次郎社長といった方々の熱烈なご指導を仰いだことが、成功の要諦であり、感謝してもし尽くせない思いでいっぱいである。 が、とりわけ私の目の鱗を取り去り、新たなステップを時代時代で踏ませてくれた本である。 すべては一期一会、感謝感謝である。そして、今、量販の一方の軸として専門店商法への要請が強く、お客様は専門店のサービスを求めている。本誌の歩みを再び活かし、専門店時代を構築していきたいと決意しているこのごろである。
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