巻頭言
和田光征 世情諸々と起こっている。 不思議なのは前号の本稿で「政治の王道」を書いたが、それから3週間足らずで安倍総理は唐突に辞任してしまった。かつて小泉さんについて書いた時は一年後で退任されたから、妙な因果を感じてしまう。 それにしても唐突な辞任であった。小泉さんの後任として期待され登場したことから、結局安倍さんは小泉さんの負の部分を一身に担ってしまった。そういう意味からは同情もできるが、それ以前の問題として安倍さんは、そもそも首相としての重責を理解し得ない儘だった。それだからこそ放り出し得たのではないか。 安倍首相就任時の小泉さんの評として、その器に触れず「やってみなければ分からない」とのコメントがあった。誰しもやってみなければ分からないだろうけれども、器量については測れる筈である。器の確認もなく「やってみろ」とは、企業経営にしてもあり得ないことであろう。 新聞報道によると、安倍さんの祖父、岸信介元首相はその昔、「晋三が総理の器でないことぐらい分かってるよ」とコメントしていたという。そして「見識」をトップとしての条件に挙げていた。P・F・ドラッカーは「自分が何をやりたいかではなく、何をやらなければならないか」がトップの要諦である、と言っているが、そのことに照らしてみても器ではなかったのである。ましてや天下国家である。 いずれにしても政治は、公明正大なる普遍的大道に立って遂行していかなければ、民は苦しむばかりである。と同時に我が業界においても、他山の石としてこのことを肝に銘ずべきであると思う。 「才なく知なくとも徳や情があれば人生間違いない。徳は根幹、才は枝葉、才より徳のまさるを君子といい、才徳兼備を聖人という」と王陽明は教えている。 トップは何はともあれ君子でなければならない。 また「生も一時のくらいなり。死も一時のくらいなり。たとへば冬と春のごとし。冬の春となるを思わず、春を夏となるをいわぬなり」「山河大地、日月星辰これ心なり」(道元) そして西郷南州は教えている。 「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とする。天は人も我も同一に愛しあう故、己を愛する。心をもって人を愛するなり。 人を相手にせず天を相手にせよ、天を相手にして己を尽くして人をとがめず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。 己を愛するは善ならぬ第一なり。修業できぬも、事ならぬも、あやまちを改むることできぬ事、功に誇り、驕慢に生ずるも、皆、己を愛する為なればなり」 「いのちもいらず、名もいらず、宮位も金もいらず、こうした人間でなければ大事の判断交渉はできず」 トップは哲学がなければならない。その哲学の根元こそ天地自然のなりわいであり、そして人間への愛ではないか。ゆるぎない根本のものの見方、考え方が何よりも重要なのである。
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