巻頭言

敬天愛人

和田光征
WADA KOHSEI

私は「敬天愛人」ということを、自らの標語にしている。これは西郷隆盛の造語だと記憶しているが、流石に西郷さんは、今もって人気がある。私は九州・大分の産ということもあろうが、少年の頃「西郷隆盛」などと呼び棄てにすると叱られたものである。

しかし、私が「敬天愛人」を自らの標語としたのは、はっきり言って西郷さんとは関係なく、この巻頭言を引き受け、ずっと述べて来た発想のバックボーンとして辿り着いたということである。

われわれは、ややもすると自分中心に物を考えてしまい勝ちだし、今目に見えている物からあらゆる物を認識して行動を起こすのが一般的だが、果たしてそれは正しいのかというと、疑問である。なぜなら、目に見えている事象にはその背景が厳然とあり、背景の成り立ちや正体というものを把握した上で認識する事が正しいと思うからである。

私は、前述したように九州の片田舎から上京して来た人間だから、東京という大都会の正体を掴むのに苦労したが、たまたま兄弟達が上京した場合に、彼らが田舎へ帰り東京を語るのが実に面白い。彼らは数日の、言うなれば表面的な東京を見、体験して、それが総べての様に語る。また聞く側も、テレビで見たり雑誌で見たりした東京物語とを交錯させ、はるかな都市を思い描きながら聞いているのである。

徳川幕府によって江戸が開かれ、それは営々と様々なことを飲み込みながら流れていき、今日の東京となった。さらに日本という国が存在し得る限り、東京は変貌しつつ存在していく。関東平野の一角にお茶の水の山を削り、湿地を埋めて江戸は誕生した。それ以前は大自然だったのである。

江戸から東京へという歴史の流れ。それを暖かく包み込んでいるのは自然そのものである。天は宇宙をも含めた自然そのものであり、そこに人間の営みがある。その瞬間の営みの結果として都市があり、オーディオやビジュアル商品が存在し得るのである。

自然があって、人間がいる。このことこそが原点であり、本質である。自然があるのは当然だ、人間がいるのは当然だという思いが若しあったとしたら、それは傲慢であり、そこから本質に迫る発想は生まれ得ないと思う。

自然の偉大さ、あるいは水が高いところから低いところへ流れるという自然、物事が治まるという自然、こうしたことの素晴らしさを知り、人間に対する言い知れぬ愛を内面深く沈殿させることができた時、私は現実に対する自信と未来に対する可能性が見えてくるのではないかと思う。

「企業経営における精神の重要性、さらに押し進めるならば宗教にも得た精神、それこそ最大の財産であり、独特の強さ」という、世界最大の優良企業シュルンベルジェ社。読み進めていくほどにシュルンベルジェ社の精神の根源に「敬天愛人」を感じてならなかった、と京セラ創業者の稲盛和夫氏は、監訳「パーフェクトカンパニー」の中で述べられている。

わが業界も自然に包まれ営みをもつお客様がいて、そして商品が生み出されるのである。お客様が自然に求める商品が最も売れるわけであり、それはお客様への深い愛があって、はじめて可能になるのである。


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