巻頭言
また、お会いしましょう
和田光征
WADA KOHSEI
10月12日は良く晴れていた。その日の朝6時、音元出版の岩間ツウ子専務(故・岩間正次会長夫人)が2ヵ月余の入院生活で、静かに眠るようにあの世へ旅立たれた。八十六歳の天寿だった。入院する前の日までまさに現役で、しっかりとして、遅くまで後任の2人の娘に仕事を教え込んでいた。
入院とともに私と専務は、朝そして夕と電話で話し、9月29日15時30分の電話が最後の会話となった。緩和ケアだったのでその治療の度合いを私自身も分かっていた。いよいよお別れの日が近づいたことを認識して、涙が止まらなかった。
私は1968年(昭和43年)の4月、音元出版の前身である電子新聞社編集部に23歳で入社した。以来47年間岩間専務との歩みが始まったわけである。当時、総務経理に2人の女性が向かい合って仕事をしていた。ひとりは活発で煙草も吸い元気な人である。その前で静かでおとなしく黙々と仕事をしているうつくしい人がいる。私は数ヵ月間、元気な人が社長夫人であるとばかり思っていたが、ある時上司から事実を聞いて驚嘆したのである。
私が入社した折社員は10名程度だったが、2年後に会社の殆どの幹部と社員が退社してしまい、岩間社長と夫人と私、そして私より1年後に入社した佐々木さんの4名になってしまった。退社するリーダー格の人から一緒に行こうと度々誘っていただいたが、私はお断りして残った。折角掴んだ、三度の飯よりも好きだった編集職を振り出しに戻したくなかった。転職することが根本的に性に合わなかったし、同時に私自身、私のような者を採用してくださった社長と奥様に深く感謝していたのである。
そして皆いなくなってしまった。その時、社長夫人はほんとうに心配そうでかなしげに見えたが、やはり静かに黙々と仕事をこなしている。社長は午前中会社にいるが、午後は全く姿が見えない。夕刻になると社長から電話がきて、夫人は「お先に失礼します」と言って帰っていく。その頃、私は小誌の前身の雑誌の編集責任を任されていたので、それからの時間が佳境である。終わらない分は家に持ち帰って夜中の2時3時になった。外注一切なしで企画、取材、執筆、レイアウトを一人でこなし、日中は営業と取材という日々が続く。夫人はいつもやさしい言葉で励ましてくれ、感謝をしてくれた。
社長がやや病がちで会社を1ヵ月近く休むことも度々あった。夫人から「会社がつぶれても仕方がない」と社長が言っていた話を聞いたが、それ程に切羽詰まった状況とは知らなかった。それとは関係なく私は営業に全力投球して、編集の仕事は夜家でするペースで楽しく生き生きと働いていた。
ある時、暗い顔の夫人に「全く心配いりません。私がしっかりやりますから」と宣言して、その日から成果を報告した。月間400万円あれば運営できる時代だったが、私はそれを軽々とクリアし倍近い売上げを上げていた。夫人の喜ぶ顔が何よりも嬉しかった。病床の社長も、この会社の行く末に手応えを感じたのか元気になり、その後私との二人三脚が始まった。そして今日に至るわけである。
私は25歳の時、「苦労人の夫人を生涯守っていく」と心に決めた。そのとおりにしっかりと歩んで、岩間専務は旅立ったのである。