巻頭言

江川先生

和田光征
WADA KOHSEI

評論家の江川三郎先生が82歳で永眠された。

私と江川先生の長いおつき合いは40年に及ぶが、何と言ってもその出会いが印象的だった。当時、私は「季刊オーディオアクセサリー」誌の立ち上げで創刊号を無事刊行し、2号目の作業に取りかかっている頃だった。

私は同誌の編集長として、オーディオ機器+アクセサリーのもっとも情報量の多い雑誌を目指すとともに、アマチュアリズムについても取り組むつもりでいた。つまり完全に読者指向、読者参加型の新しい雑誌の誕生である。私は強い信念のもと、10年後を見据えて動き出していたのだ。

そんな折、あるメーカーのゴルフコンペがあって、雑誌関係者と評論家が出ていた。コンペが終わり、東京に向かって走る車の前の座席に私は座り、運転は「無線と実験」誌の大泉さん、後部座席には共同通信社の梅原さん、そして評論家の江川さんが座っていた。

渋谷に着くまで江川さんはずっと喋り続けていた。『よく喋る人だなぁ』と思い聞いていたが、それがだんだん私の中で『面白い人だなぁ』に変わってきた。

話の内容は、平岡織染という会社の、自動車の運転席に敷くゴムシートをターンテーブルシートにするといい音がする、というもので、喜々として話し続けている。そこで私が「江川さん、それは1万枚売れますよ」と言うと江川さんは驚いた顔をして私を見つめ、「あんた、どこの人?」。私が素性を言うと、「あのアクセサリーの和田さんがあなたか」、「そうです」、「そうか、そうか」と笑みを浮かべた。ようやく渋谷に着き車を降りて、「江川さん、8ページをあげますから、そこで何でも自由にやって下さい」と私。「ええ、8ページも、毎号…」と江川さんは絶句し、「有り難う有り難う」と謝意を述べていた。

その車の中で私は、江川さんにアマチュアリズムの塊みたいなものを感じていた。メーカーの製品批評をするには向いていないと思っていたから、それは駄目だと釘をさし、それでももしメーカーからクレームがきたら私が対応することにした。こうして、「季刊オーディオアクセサリー」第2号から江川先生の連載が始まったのだ。

連載第一回目の時、「和田さん、アキバに行って、ロールに巻かれている各社のケーブルを2メートル、3メートル、5メートル揃えてくれ」と言ってきた。「ケーブルで音が変わるんだ」と。「これは面白いゾ」と私。そしてスピーカーケーブルのブラインドテストが始まった。私は、「なるほど、これが江川先生のやり方なのか」と思い、楽しくなって来たと微笑んだ。

「季刊オーディオアクセサリー」第2号は1万部を見事に完売した。それから江川さんは毎号、8ページの中で次々とアマチュアリズムの極みのような提案をし続け、私はこのページを「江川三郎実験室」と命名し、「江川三郎は身体でものを考える」と副題をつけた。同誌の名物企画となった。

私の推測では、全国に少なくとも1万人の江川ファンがいる。現在まで永々と40年続いてきた連載は、どれだけ多くの人に夢を与えてきたのだろうか。江川さんは天に召されても、その遺志はファンの中に受け継がれ、永遠に生き続けるだろうと思うのである。

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