巻頭言
池波先生
和田光征
WADA KOHSEI
神田須田町辺りに著名な蕎麦屋が二軒ある。「神田薮そば」と「まつや」で、小社から歩いて10分ほどなので昼食にでかける。私は専ら庶民的な「まつや」だが、遠方より友来たるときは「神田薮そば」へ案内し、変わらぬ料理の旨さはもとより、創業以来100年以上も続いているお客あつかいの巧みさを体験してもらっている。
お客は何品も注文する。もりとかけの人もあれば、銚子に鴨やき、そしてそばというケースもある。つまり一人一品が原則ならばいいのだが、実際には一品以上が多い。「神田薮そば」では客席と厨房の境に帳場があり、昔からおかみさんが座し、注文の品を厨房へ通していく。「何番さん、もりそば四つ、天ぷらそば二つ、お銚子一本」と透き通る声で唄うように読み上げて、最後に「…おてもと二つ」と締める。おてもといくつということで、人数が分かるわけである。
伝統によって生み出された知恵といえるだろう。
さて、「まつや」である。「まつや」ではごまだれと天もりを注文するケースが多いが、ごまだれと天ぷらそばか卵とじ、またはごまだれと鴨南ばんも多い。
3月29日、ことしは桜も早く、すでに満開に近かった。私は久々に「まつや」へ行った。時間を多少ずらせたのだが、行列である。運良くテーブルに着くことができ、ごまだれと天もりを注文した。品が運ばれてくる間、腕組みをして、天井の巨大な照明をみていて、視線を横に振って「あっ」と言った。そして瞬きをして焦点を合わせた。「池波正太郎だ」。
池波正太郎先生が「まつや」のファンであることは識っていたし、この界隈を散策している姿を幾度となく見ていたので「…先生はきょうは鴨南ばんかな」と微笑んだ。
まず、ごまだれがきた。私は早食いの気があってあっという間にたいらげる。よく人に「早いねぇ」と言われると「集中力、集中力」とおどけて見せる。天もりがきた。山吹き色で15pほどの海老天ぷらが2本、温かい天つゆともりそばと一緒にやってきた。天ぷらは相変わらず歯ごたえがあって旨い。食べながら視線は池波先生を追っている。
先生は立ち上がって、帽子を頭にのせ、ステッキを腕にかけ、勘定を済ませて歩き始めた。視線が一瞬だが合った。微笑みかけてくれたように思えた。実際は「さっきから俺のことばかりみていて、変な奴だな」と思われたのかも知れない。先生が閉めた入口の音が耳に滲みた。
池波正太郎ファンは、わが業界にも多い。その魅力を主人公達の人間としての魅力だと異口同音に言う。罪を憎んで人を憎まずの姿勢はまさに自然流というところだろうか。
5月の終わり、池波正太郎先生は帰らぬ人となった。ある随筆で「死ぬために生きてるのだよ」と言っていたが、3月29日の先生はどんな思いだったのだろうか。
「まつや」のそばを食べたくて、病院から遠出をされたのかも知れない。
(本誌1990年7月号の記事を再掲載)
私が巻頭言を書き始めたのは1984年6月号からで382回となった。その中でもおきに入りの一文である。