世界的なジャズピアニスト
追悼 ジャズピアニスト辛島文雄さん − いままで本当に素晴らしい音楽、有難うございました
長い間、日本のジャズ界を牽引してきたピアニスト辛島文雄さんが2017年2月24日に逝去されました。68歳という若さでした。
辛島さんは、高校時代にジャズに目覚め、大学卒業後、ニューヨークに渡った後に帰国。その後ジョージ大塚のバンドに参加し、エルヴィン・ジョーンズによりバンドメンバーに抜擢され6年間もの間、エルヴィンバンドの一員として欧米を中心とした音楽シーンにて活躍し、世界的なジャズピアニストの名声を確立しました。
その後も、海外ミュージシャンとの共演は数多く、エルヴィンの魂を継承したピアニストとして、高い評価を得ることになりました。近年はレギュラーバンドを中心とし、「新宿ピットイン」を核として、毎年各地でツアーを行いながら、コンスタントにアルバムをリリースしていました。
『analog』誌では14号から続く人気連載、ピットインの社長、佐藤良武氏とのインタビューページにて、初のゲストとして16号、17 号(2007年)に登場。それ以来、温かい人柄で、親しくお付き合いいただきました。姉妹誌『ネットオーディオ』誌の付録ハイレゾ音源の収録にも楽曲を提供していただき、『analog』誌と共同で辛島さんの名演を提供していただいてアナログレコードも制作させていただきました。
辛島さんの精力的な演奏活動はずっと続くものと思っていましたが、2015年8月に突然、膵臓癌が発見され、余命数カ月と宣告を受けて治療を受けることになりました。しかし辛島さんはそれ以来、癌と闘いながら、最近まで演奏活動し続けてきました。まさにジャズピアニストとしての使命感が、精神と肉体を支えてくれたのだろうと思います。
亡くなられる直前の2月14日、「新宿ピットイン」のステージに立ち、1部を終え、2部でジョージ大塚さんがゲストとして登場し、トリオで3曲を演奏後、自らのバンドで1曲を演奏したところで、「もうつらくて演奏ができません。これで最後のステージとさせて頂きます。みなさん有難うございました。奇跡が起こったら戻ってきます」と涙を流しながら、ステージを後にしたのが最後の演奏となりました。もちろん場内は万雷の拍手。
その直後、楽屋を訪ね握手をし、「ぜひ奇跡を起こしてください」と申し上げましたが、再び奇跡が起こることはありませんでした。最後まで現役ピアニストとして生きた、本当にすごい方でした。
発病後、アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス/辛島文雄』を、多くのミュージシャンの協力を得て2016年6月にリリースしましたが、これが最後のアルバムとなりました。当サイトで行ったインタビューでは「病気をしてみると、なんとまあ多くの人が僕の体を心配してくれて、僕のために心を砕いてくれていることが、よく分かった。音楽というのは技術やパワー、それだけじゃなくて、実は心なんだと67歳ではじめて気づいた」と話しており、これまで出会ったたくさんの人たちに感謝の想いを伝えていました。
辛島さんが若手の育成も含め、日本のジャズシーンに与えた影響はあまりにも大きく、あのロマンティックなメロディと時にアグレッシヴな演奏、そしてダンディな姿をもう観ることができないのはとても寂しくて仕方ないのですが、これまで収録してきた多くの名演は永遠のものです。
“辛島文雄さん、いままで素晴らしい音楽を有難うございました。天国でもピアノで、みんなを喜ばせてください!”
心からご冥福をお祈りします。
辛島さんは、高校時代にジャズに目覚め、大学卒業後、ニューヨークに渡った後に帰国。その後ジョージ大塚のバンドに参加し、エルヴィン・ジョーンズによりバンドメンバーに抜擢され6年間もの間、エルヴィンバンドの一員として欧米を中心とした音楽シーンにて活躍し、世界的なジャズピアニストの名声を確立しました。
その後も、海外ミュージシャンとの共演は数多く、エルヴィンの魂を継承したピアニストとして、高い評価を得ることになりました。近年はレギュラーバンドを中心とし、「新宿ピットイン」を核として、毎年各地でツアーを行いながら、コンスタントにアルバムをリリースしていました。
『analog』誌では14号から続く人気連載、ピットインの社長、佐藤良武氏とのインタビューページにて、初のゲストとして16号、17 号(2007年)に登場。それ以来、温かい人柄で、親しくお付き合いいただきました。姉妹誌『ネットオーディオ』誌の付録ハイレゾ音源の収録にも楽曲を提供していただき、『analog』誌と共同で辛島さんの名演を提供していただいてアナログレコードも制作させていただきました。
辛島さんの精力的な演奏活動はずっと続くものと思っていましたが、2015年8月に突然、膵臓癌が発見され、余命数カ月と宣告を受けて治療を受けることになりました。しかし辛島さんはそれ以来、癌と闘いながら、最近まで演奏活動し続けてきました。まさにジャズピアニストとしての使命感が、精神と肉体を支えてくれたのだろうと思います。
亡くなられる直前の2月14日、「新宿ピットイン」のステージに立ち、1部を終え、2部でジョージ大塚さんがゲストとして登場し、トリオで3曲を演奏後、自らのバンドで1曲を演奏したところで、「もうつらくて演奏ができません。これで最後のステージとさせて頂きます。みなさん有難うございました。奇跡が起こったら戻ってきます」と涙を流しながら、ステージを後にしたのが最後の演奏となりました。もちろん場内は万雷の拍手。
その直後、楽屋を訪ね握手をし、「ぜひ奇跡を起こしてください」と申し上げましたが、再び奇跡が起こることはありませんでした。最後まで現役ピアニストとして生きた、本当にすごい方でした。
発病後、アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス/辛島文雄』を、多くのミュージシャンの協力を得て2016年6月にリリースしましたが、これが最後のアルバムとなりました。当サイトで行ったインタビューでは「病気をしてみると、なんとまあ多くの人が僕の体を心配してくれて、僕のために心を砕いてくれていることが、よく分かった。音楽というのは技術やパワー、それだけじゃなくて、実は心なんだと67歳ではじめて気づいた」と話しており、これまで出会ったたくさんの人たちに感謝の想いを伝えていました。
辛島さんが若手の育成も含め、日本のジャズシーンに与えた影響はあまりにも大きく、あのロマンティックなメロディと時にアグレッシヴな演奏、そしてダンディな姿をもう観ることができないのはとても寂しくて仕方ないのですが、これまで収録してきた多くの名演は永遠のものです。
“辛島文雄さん、いままで素晴らしい音楽を有難うございました。天国でもピアノで、みんなを喜ばせてください!”
心からご冥福をお祈りします。
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