立体映像ジャーナリスト・大口孝之氏が解説
今度こそ本当に普及するのか?「3Dブーム」の今までとこれから【前編】過去にも数度、3Dブームが存在していた
■1950年代に3Dテレビが誕生。3D放送は1970年代に日テレがおこなっていた
第1次立体映画ブームは、元々テレビとの差別化のために劇場側が採った戦略であるにも関わらず、すぐにテレビ界も3D化に乗り出します。そして1953年にアメリカやメキシコで実験放送が行われました。この写真はアメリカン・テレビジョン研究所の立体テレビ実験の様子です。
これら50年代の3Dテレビは実用には至りませんでしたが、基本的なアイディアは現在エレクトロニクス・メーカーから発表されているものとかなり共通しており、ブラウン管や機械式シャッターが液晶(ないしプラズマ)に代わっただけとも言えます。
ちなみに単なる実験ではなくて、実際に3Dの本放送に踏み切ったのは、なんと日本テレビが世界初です。第1次ブームから少し下った1974〜5年に放送された、連続テレビドラマ『オズの魔法使い』がそれで、第11話より番組の一部がアナグリフ立体映像になっていました。筆者は毎週、赤青メガネを用意してテレビの前に陣取り、3Dになる瞬間を待っていたのを覚えています。
■1980年代の第2次立体映画ブーム − こんにちに繋がる3D技術がほぼ完成
1980年代に入ると、第2次の立体映画ブームが巻き起こります。これは今までのように、新しいメディアに対抗してというのではなく、逆にそれに刺激されて始まったものでした。その新メディアは米国のケーブルテレビでした。1980年にロサンゼルスのケーブル局Selec TVが、『雨に濡れた欲情』(1953)という立体映画をアナグリフに変換し、(日テレの『オズの魔法使い』と同様に)視聴者に赤青眼鏡を配布して3D放送したのがきっかけです。
するとこれが話題になり、次々と古い立体映画が放送されました。これに映画業界は新たな可能性を感じ、新作の立体映画を立て続けに制作していきます。その中には、『13日の金曜日Part3』(1982)や『超立体映画 ジョーズ3』(1983)のような話題作はあったものの、残念ながら大半が低予算のB級映画で、物珍しさが薄れると共に消滅していきました。
そしてこのころ、軍事、宇宙、科学、産業向けに、米ステレオグラフィックス社(現在のReal D社の前身)が、液晶シャッターを用いた3Dメガネを開発し、1980年に発表します。この技術に松下電器産業(当時)が注目して、1981年に「Panasonic Quasar」という3Dテレビを試作し、シカゴの展示会で公開しました。そこに用いられた技術は、走査線の奇数と偶数に左右の映像を割り振り、液晶シャッターグラスで切り換えて鑑賞する「フィールド・シーケンシャル方式」でした。現在、各メーカーの3Dテレビは、画面全体を交互に切り替える「フレーム・シーケンシャル方式」を採用していますが、基本的には当時と共通する技術です。
その後3Dテレビは、主に三洋電機によって80年代後半から90年代前半に大きく発展します。技術的には、ほとんど完成されていましたが、残念ながら定着することはありませんでした。失敗の最大の理由は、質の高いソフトが無く、ハードとコンテンツのバランスが取れなかったことにあります。
後編では、現在の3Dブームを紐解き、過去のブームとの比較。3D普及のカギを探ります。
【執筆者プロフィール】
大口 孝之 OHGUCHI,Takayuki
1959年岐阜市生まれ。日本初のCGプロダクションJCGLのディレクター、世界初のフルカラードーム3D映像となった花の万博・富士通パビリオンIMAX SOLIDO(TM)「ユニバース2 −太陽の響 −」のヘッドデザイナーなどを経て、フリーランス映像クリエータ/ジャーナリスト。NHKスペシャル「生命・40億年はるかな旅」のCGでエミー賞受賞。「映画テレビ技術」等に執筆。代表的著作「コンピュータ・グラフィックスの歴史」(フィルムアート社)