内田
これが僕のデザインしたプロジェクターです。彼らがなぜインテリアデザイナーである僕に、工業デザインを依頼してきたのかということから話しましょう。彼らによると、「プロジェクターは天井に吊るしたり、室内空間と一体化して設置されることが多い」ということなんです。つまり、「これはインテリアデザインだろう」と。そういうことで依頼を受けたんです。

内田 繁(Shigeru Uchida)
デザイナー。桑沢デザイン研究所卒業。代表作に、山本耀司のブティック一連、科学万博つくば'85政府館、ホテル イル・パラッツォ、神戸ファッション美術館、茶室「受庵・想庵・行庵」、門司港ホテルなど。著書に『プライバシーの境界線』『日本のインテリア』『インテリアと日本人』『家具の本』他。毎日デザイン賞、商環境デザイン賞、桑沢賞、芸術選奨など、受賞多数

そこで、「では、どうデザインしていこうか」と考えました。プロジェクターを室内に設置する手法は3つあります。1つは、収納してしまう手法。もう1つは、台の上に置くという手法。もう1つは天井に吊るす手法。天井に吊るすにしても、台の上に置かれるにしても、室内空間とプロジェクターが融合しなきゃ駄目だということになります。そこが今回のデザインの出発点でした。

デザインするにあたって、室内であまり主張もしないけれども、愛らしさも必要だと考えました。例えばライカのカメラを持っていると、それだけで楽しかったじゃないですか。モノにはそういう性質があって、愛すべき存在感がほしいんですよね。そこで、愛すべきものになり得るか、そして存在感をなるべく希薄にして室内に溶け込ませようと、2つの方向性を立ててデザインを始めました。

まず真っ白で真四角なプロジェクターにしようと考えてみたんですね。けれども、存在感を消し去ろうとしてみても、内部構造の関係でかなり大きくなってしまうんです。物理的な大きさが残ってしまう。技術者と打ち合わせてみましたが、映像のクオリティとの関係でどうしても小さくすることはできないというんです。「では、どうしたら小さくできるんだろう」と考えてみたんですが、「内部機構のレイアウトにそってギリギリのところでデザインしていけば一番小さくなるじゃないか」と思い当たったんです。ですから、この一見奇妙な形は内部機構の配列そのままです。物理的な大きさを消し去ろうと考えて、削ぎ落としていった結果、出てきたデザインです。

鈴木 この建物(内田繁氏の新事務所、及びリラインスのショールーム「ル・ベイン」が入った建物)とそっくりですね。

内田 そうですね(笑)。

鈴木 僕はこの建物のデザインが好きなんです。いらないものが一切ない。必要最小限に抑えているからこそ、とても美しく感じます。今日、このプロジェクターを見て、「一緒にデザインしたんじゃないの?」と感じました。初期の頃のモダニズムかな、という感じがするんです。コルビュジェの初期の作品にすごく似てるじゃないですか。

内田 なるほど。それは光栄ですね。

鈴木エドワード(Edward Suzuki)
建築家。ハーバード大学大学院ア−バンデザイン建築学修士。代表作に、警視庁渋谷警察署宇田川町派出所、オンワード代官山ビル、JR東日本・さいたま新都心駅、JR東日本・東京駅 銀の鈴待合い広場、GAMO青山など。碑文谷ガーデンズで建築士会住宅賞、JR東日本・赤湯駅で公共建築賞優秀賞、JR東日本・さいたま新都心駅で彩の国さいたま景観賞など受賞多数

鈴木 最近になって感じるんですが、自然、例えば動物のデザインを見てみると、必要最小限に抑えられているものが多いんですよね。例えば、鳥や魚など、縦横無尽の動きをしますが、その形態は付け足すというのではなく、削ぎ落とす作業の集大成なんですよね。内田さんのデザインを動物と並べるわけではないけれども(笑)、いろいろなデザインをしてきた結果、そこに落ち着いてきたのかな、と感じますね。

内田 いろいろやりましたからね(笑)。最近、僕は「ウィークモダニティ(weak modernity)」という言葉を使うんです。鈴木さんの言葉は非常にうれしいんだけれど、20世紀のモダニズムというのは力強かったと思うんです。力強くて大きくて非常に構築的だったと思います。人間よりも社会システムが肥大化して、人間は社会システムの一つでしかなかった。しかし、僕はもっと弱いモダニティが必要なのではないかと思うんです。モダニティそのものは捨てられないと思いますが、人間はそもそも弱くて曖昧な存在です。ですから、人間に本当にあったデザインは弱さを含んでいなければならないだろうと思うんです。

今、鈴木さんが、生物というのは必要なものしかないんだといいました。例えばウスバカゲロウがいますよね。本当に必要最小限なものしかなく、ペラペラとしていますが、そういうものが持っている、本当の強さがあると思うんです。

今年のミラノサローネの展覧会『HANA』もそうだったんですが、「ウィークモダニティ」が最近の僕のテーマなんです。このところずっと弱さのデザインとは何なのだろうかと考えているんですが、このプロジェクターにもそれが現れているかもしれませんね。デザインしている時は意識していませんでしたけれども(笑)。


鈴木
モダニズムのモットーにForm follows functionという言葉がありますけれども、形や美というのは、その機能を素直に追ってくれる存在であって、それ以上必要なものはない。モダニズムはそういう意味でミニマリズムを追い求めていましたよね。

内田 一つはそうですね。

鈴木 モダニズムの出発点には、必要最小限に抑えるという、ストイックなイメージがあったんじゃないかと思うんですよね。まさにForm follows function。そこから始まったにもかかわらず、デザインはずっと遠回りしてきてしまった。このプロジェクターを見ていると、それがようやくここに戻ってきたか、という感じがしますね。

内田 なるほど。確かにモダニズムの出発点には、そういう面があったんですよね。機械があるなら、機械自体の美を考えてみようかというのが、バウハウスの出発点でしたよね。ところが、次第にファンクションや合理性に偏ってしまった。もともとの理想から離れてしまった。その結果、社会システムが巨大化して人間を押しつぶしそうになり、モダニズムの夢がぐちゃぐちゃになってしまいました。それに対して1968年に世界中が異議を唱えましたよね。

鈴木 そうですね。

内田 70年代、80年代には、その批判がずっとおきざりにされてきてしまいました。しかし、21世紀に入って、そろそろ冷静にデザインを考えていかなくてはならないと思うんですよね。

鈴木 機械が主役になってしまって、いつの間にかテクノロジーがそれ以上の巨大なもの、社会システムになってしまって、その中で何か人間が押しつぶされるような懸念も出てきてしまった。いつの間にか人間と機械・テクノロジーが対立するものになってしまいました。しかし、冷静に考えてみると、それは間違い、本来機械というのは人間が考えて、開発して、発展していった結果のはずです。人間は自然の産物だから、進化理論の中で考えてみると、その流れは非常に自然な動きだったわけですよね。

「ウィークモダニティ」といわれましたけれども、それはローテクとは違いますよね。よくローテクというのは自然に対応して、ハイテクというのは機械の発展的なものというように捉えられがちです。最近、そういう勉強を個人的にやっていましてね。バイオミミクリ(biomimicry)という動きがあるんです。ミミクリというのは、コピーする、模倣するという意味です。自然から学ぼうという動きが先端科学の中にあるんだそうです。自然のことをよく観察すると、実は自然の微妙な動きにテクノロジーはまだ追いついていない。自然こそ、ハイテクなんですよね。


編集部 内田さんは90年以降「日本的な方法」を意識していましたが、このプロジェクターには、そうした影響は見られますか。

鈴木 内田さんは、お茶の世界にすごく入りこみましたよね。

内田 はい。

鈴木 茶道は必要最小限の空間の中で、必要最小限の道具とアートと人間とがこれ以上削れないような環境に自らを置くという儀式ですよね。そういう方面での動きの結果、こういうデザインが生まれたと思います。

内田 「そうです」といいたいけれども、自分のことはあまりよくわからないんですよ(笑)。

鈴木 だって、グロピウスもミースも、バウハウスの神様と言われる人たちというのは、日本の文化にすごく影響されているじゃないですか。ミースは、鉄とガラスだけで桂離宮を再現しようとしましたよね。モダニズムには、そういう面があるんだと思います。内田さんも「日本」を通って、そこにたどり着いたんじゃないかなと、このプロジェクターを見て思うんですよね。

内田 確かに僕は90年ごろから日本的な方法を意識してきました。削ぎ落としていった結果現れる日本独特の美というものに意識的に取り組んできました。それが無意識に出てしまったかもしれませんね。

鈴木 それと、無機物だから動物と比較できないけれども、ある意味ではペット的な存在になる可能性がありますよね。洗練されたデザインなんだけれども、愛着を持てるデザインです。

内田 そういう意味では、マルコ・ザヌーソたちがやっていた60年代のイタリアのデザインを意識したというのもあるんです。形とかではなくて人間とプロダクトの関係ですね。例えば、ブリオンヴェガのラジオなどは、音質はあまりよくなかったんだけれども、愛すべきラジオでしたよね。彼らはプロダクツと人間との距離を把握していたんでしょうね。


編集部 建築物の中には家電など、いろいろなプロダクトが入ってきます。鈴木さんは建築家として、どのようなことをプロダクトに望みますか?

鈴木 いろいろな建築があるので答えにくいのですが、多様な建築にあった多様な選択ができるとうれしいですね。使う人はひとりひとりが違う個性ですよね。建築はそれらの別々の個性に向けてデザインしていくわけですから、選択肢はたくさんあった方がいい。本人が選んだという意識を持ってもらうことが重要なんだと思うんですよね。そういう環境がプロダクトデザインの世界にあるべきだと思うし、同じように建築もそうあってほしいと思いますね。

内田 鈴木さんは今のプロダクトの問題点を見事に指摘しました。デザインは1つしかないということを前提に置きながら、モノを作っていったことがプロダクトを駄目にした原因だと思うんですよ。これまでは例えば100万人を狙ったモノ作りが多かったでしょう。しかし、人間というのはひとりひとり違うんだから、選択肢が必要でしょう。

鈴木 工業化社会の初期段階では仕方ないのかなとも思いますね。大量生産というのも必要な時期があったのかもしれない。しかし、ここに来て「そうではないんだ」と気づき始めた。

内田 電化製品に関していえば、60年代までは技術の方が先行していたから、ある意味では形なんてどうだってよかったんです。ここに来てそれが変わってきたんでしょう。

鈴木 そういう意味では、このプロジェクターは選択肢のひとつとしておもしろいでしょう。ペットみたいに愛らしいし(笑)。

内田 そうでしょう(笑)。

鈴木 僕も最近大和ハウス工業とコラボレーションをしてEDDI's HOUSE(エドワード・大和ハウス・デザイン・イノベーション)という住宅を手がけたんですが、これまで住宅メーカーは1つの住宅、1つのデザインで多くの人を満足させようとしてきたんですね。

内田 しかし、それはまずあり得ないでしょう。

鈴木 ですから、開発の時に、「それは間違いだろう」と僕は話したんです。大きなマーケットを狙わなくてもいいだろうと。本当に共感してくれる人に対して売っていけばいいだろうと思うんです。価値に共感してくれることが一番重要なんですよね。

編集部 そういう状況の中で、このプロジェクターは、非常に重い意味を持っていると思います。本日はデザインコンセプトから、プロダクトの現代における意義まで話は多岐にわたりましたが、このプロジェクターの登場は、ある意味、20世紀を覆っていたフォーディズムの終焉を象徴しているのではないかと思います。プロダクトの新しい時代を告げる製品であるといってもいいのかもしれません。


内田繁氏が目論んだのは存在感を希薄にすること、意味の消去だった。プロジェクターの実際の使用状況を見ると天吊りが多い。にもかかわらず、これまでのプロジェクターのデザインのコンテクストは、メカニカルなものであった。つまり、デザインが空間と乖離していたのである。そうした背景のもと、内田氏は内部構造にそってデザインし、大きさを最小限にし、さらに二次元カーブを使い、空間における存在感を消していった。要素の単純化も心がけ、天吊り金具もプロジェクターといっしょにデザインすることで、存在感を消し去ることに努めたのである。

さて、内田氏といえば、空間の中で存在感を消した椅子など、ミニマリズム的な作品で知られている。また、最近では日本的な手法を用いたデザインでも知られる。日本的な手法とは、非装飾的な美を作りだすこと、削ぎ落としていく独特の美学であるが、氏はその手法を90年代以降ずっと追求している。削ぎ落としていったミニマルなデザイン、カーブの繊細な処理などがこのプロジェクターにはなされているが、そうした点ひとつひとつに、氏の軌跡が見てとれる。内田氏のこれまでの活動が凝縮された逸品だといっても過言ではないだろう。

文/ホームシアターファイル編集部