「ミンヨン 倍音の法則」スタッフインタビュー − 宇宙に身を投げ出すような映画製作の現場
宇宙に身を投げだすような映画製作
はらだ つまり、経済性とか効率性とか、そういうことを考えるとまったく宇宙に身を投げ出すような感じですから。途中あたりから僕、メルヴィルの「白鯨」のようだと思いました。エイハブ船長というのがいて、まったく謎めいていて、ある意味で白鯨を絶対しとめるという強い強い願望にとらわれているわけですよね。その周囲の船員たちは彼の魅力にひきつけられながらも、それぞれにとまどいや不安やをかかえながら、それでもついていく。状況として似ているなあと。撮影は、2010年の10月31日にクランクインして、終わったのはクリスマスイブでした。途中でものすごい寒いソウルにも行きました。
吉田 ソウルでは雪も降りましたよね。雪のシーンはないんだけれど、下はもう真っ白の世界でした。
はらだ 我々より一日早く行っていた秀さんが凍えるように部屋に入ってきて、夕日が撮れた、夕日が撮れたと言って。川に行ったときはほっとしましたけれどね。佐々木さんの故郷に来たみたいで。
製作が途中でストップしてしまった
はらだ 撮影が始まって2ヶ月間は、朝から晩まですごい数を撮りました。文化庁助成金1,000万円の申請をしていて、3月末までに編集を終わらなければいけなかったんです。それでとにかく、ほぼ撮り終わり、通常だと完成することができたはずだったのだけれど、翌年になって、製作が中断してしまった。
とにかく佐々木さん自身が完全に止まってしまったんです。撮影はほぼ撮り終わっていたんですけれど佐々木さんの指示が完全になくなってしまった。.それで3月末に間に合わなくて文化庁の助成金は無くなってしまった。期待していたお金はなくなり、これから製作をどうして進めたらいいのか、みなで頭をかかえました。いずれにしろ、もう製作中断かなあみたいな空気になったんですが、ただ、ここまでやったからには可能性が完全になくなったわけではないわけだから、もうちょっと頑張ろうと、秀さんと.岩崎さんとみんな連絡をとっていました。
一方で佐々木さんからは膨大なメールがくるわけです。ご本人が葛藤して苦しんでいたのがよくわかるんです。けれどどうしていいか我々もわからない。ただ、完成させるという気持ちだけは持っていました。
新たに音楽が加わった
はらだ 結果として、佐々木さんは音楽だったんですよね。佐々木さんは2010年の撮影で、そのまま完結させることができる事はわかっているのだけれど、それではいつもの佐々木作品か、あるいは、それをやや超えたものにしかならない。それで佐々木さんが何回もおっしゃっていたのは、明るさが足りない、明るさが足りないということなんです。明るい花がほしいとか、光がほしいとか。例えばNHKで南フランスの夏とか春とかが映ると、これだ、明るい花を撮らなきゃいけないとか言われていたんです。映画が長崎とか佐々木さんのお父さんの死とか、現代の不安とか、重いことを描いたからなんですね。
ー ミンヨンさんが歌うシーンは、すでに撮影されていたのですか?
はらだ 歌うシーンはいくつかありました。けれど、アメージング・グレースや、いくつか、劇中で自然と歌われた歌であって、これほど全面的に出すという話はなかった。多分、この悲しみとか不安とか悲惨を、佐々木さんに言わせれば断ち切るような明るさ、力強さ…生命力というか、何かそういう明るさ、力強さが、やっぱり佐々木さんは欲しかったんですね。
僕はモーツァルトのピアノ協奏曲第22番第3楽章がミンヨンのテーマだと聞いていたし、ジュピターが劇中で撮影中に使われていることは知っていましたが、その後、震災の後、ジュピターをもっと強く使うといわれはじめた時、なんでこのジュピターのような強い音楽をと思いました。はたして映画として使いきれるのかという不安もあったし、気持ち的には震災の後でしたし、また製作も中断していたので落ち込んでいたから、ちょっと戸惑いましたよ。それまでは僕にとってはジュピターは映画の中心になかったんです。
吉田 撮影していまして、最後のところはジュピターで終わるようにしていました。
はらだ そうでした。まずピアノ協奏曲第22番第三楽章があってジュピターがある。そこに市立船橋高校吹奏楽部の音楽とミンヨンの歌が佐々木さんには必要だったのです。市船については、佐々木さんはニュースで聞かれたのだと思います。映画に出演されている指揮者の武藤英明さんが船橋に近いということがあり、ご相談しました。そうして武藤さんが色々と中に入ってくださって、市立船橋高校吹奏楽部の映画への参加が決まり、映画が完成にむかって進んでいきました。
ー 本日は、映画の発端から完成にむかうまでの貴重なお話をありがとうございました。
終(2014年10月5日岩波ホールにて 聞き手・構成 山之内優子)