「ミンヨン 倍音の法則」スタッフインタビュー − 宇宙に身を投げ出すような映画製作の現場
いくつかの出来事が重なって動き始めた映画の企画
はらだ 佐々木さんは天才肌の方で、やることなすこと僕の想像を超える方なんですけれど、すごく真面目な方でもあって、ちゃんと受け止めるわけですね。長崎を。結果としては、佐々木さんにとって、突然風のように現れて去っていくミンヨンの物語があり、2009年の倍音の講習会(※ 指揮者の武藤英明氏が佐々木氏に個人的におこなった倍音の講習会)があり、そこに時代の不安というのが重なっていったと思います。「ミンヨン、倍音」というタイトルまでが固まっていたようですが、そんなことを露知らない僕は、長崎ということを投げたんですね。
佐々木さんは95年にNHKをおやめになってから、ずっと作品を作りたいと思っておられたのだけれどうまくいかないということの繰り返しが、どうやら、この十数年あったようです。映画というのはお金が動くし、大きなプロジェクトだし、実際、今、日本で数百本の映画が作られているけれど、その半分以上は公開されていないという厳しい事情があるわけです。佐々木さんが、そう甘いモノではないということはよくおわかりだった上で、それほど強く新作を作りたいと思っていらっしゃったというのは、わりあい最近、知ったことです。僕と出会う前に、すでにかなり作品の枠組みができていたということも最近、わかってきたのです。
僕は僕で劇場の人間で、映画のプロデュースをしたことはなかったけれど、今回の作品で深く中心にいたことは確かです。
製作に山上氏が参加。スタッフが集結。
はらだ 佐々木さんは秀さんや録音の岩崎さんに相談に行ったそうですね。原田がこんなことをやろうとしていると。
吉田 何やろうかね、という話はされていました。
はらだ もう本当に動き始めたという感触を僕は持っていた。それで僕は責任をもたなければいけないし、実際にプロジェクトの骨格もつくらなければいけないと思いました。ただ僕は映画のプロデューサーとしての経験はないから、親しい知人であり映画プロデューサーで、豊富な経験のある山上(徹二郎)さんに相談をしたんです。2010年の3月3日、中野の喫茶店でした。どさっと佐々木さんのメールを見せて、佐々木さんはこれだけやる気があるし、ぜひ仲間に加わってくれないか、製作を担当してくれないかと話しました。彼は映画はもう今年は作らないと社員に宣言していたのですが、ずいぶん悩んで、1週間か2週間後、引き受けてくれた。
それから、僕達にとってあこがれのスタッフである吉田さんと岩崎さんと編集の松本哲夫さんが加わってくださることになった。
吉田 一番最初に岩波ホールで顔合わせをしましたね。
はらだ 2010年の4月28日、佐々木さんの新作を作ろうとみんなで顔合わせをしました。タイトルは「ミンヨン 倍音の法則」とするということで、大枠も決まりました。