【特別企画】
豊かな自然と上質なピアノから生まれた極上のインプロビゼーション − パイオニア特別DSDディスク制作の裏側(前編)
録音からマスタリングまですべてDSDで行った特別ディスクが登場
SACDだけでなく、DSDディスク再生を可能にしたパイオニアの新たなSACDプレーヤー「PD-70」「PD-30」「PD-10」。この新ラインナップ登場に合わせ、パイオニアでは広くDSDディスクのサウンドを味わってもらうべく、リットーミュージック『サウンド&レコーディング・マガジン』編集部の協力を得て、これまでに2回DSDディスクプレゼントキャンペーンを行ってきた。そしてシリーズ最上位モデル「PD-70」の販売も開始されより一層DSDへの関心が高まってきたこのタイミングで第3弾目となるDSDディスクプレゼントキャンペーンが展開されることとなった。
既報の通り、第3弾のディスク製作も『サウンド&レコーディング・マガジン』國崎 晋編集長のプロデュースのもと進められた。今回のディスクではジェーン・バーキンのワールドツアーで音楽監督/ピアノ演奏を担当するほか、2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の音楽も担当される、中島ノブユキさんのピアノ・ソロ・インプロビゼーションが収録されることになったのだが、その録音には八ヶ岳のふもとにある「花場の小さな音楽舎」が選ばれたのである。
自然に囲まれた個人所有の小さなホールでの収録
録音が行われた12月4日、パイオニアの開発チームとともに我々は「花場の小さな音楽舎」へ向かい、ありがたいことに収録風景の一端を取材する機会に恵まれた。この「花場の小さな音楽舎」は個人所有の音楽ホールであり、外観はロッジ風のペンションといった印象だ。ピアノが設置されている2階のホールは天井高のある空間で、ホールの入口部にはロフト席もある。天井や壁にはパイン系の板材が用いられているようで、マイルドなハリが得られる残響感には独特なぬくもりも感じることができた。
広さとしては20〜30人が入れるほどの大きさで、ホールに入ってすぐ2台のグランドピアノの存在に圧倒される。1台は都内のスタジオでも良く見かけるスタインウェイ、もう一台は細部の彫刻が年季を感じさせるクラシカルなベヒシュタインという組み合わせ。この日は小雪の舞う曇りがちの天候ではあったが、窓からは雄大な八ヶ岳の裾野を眺めることができた。周囲に住宅はなく、ただ静かに野鳥のさえずりが聞こえてくる自然豊かな環境であり、アコースティックな楽器を奏でるには理想の立地といえよう。
ホールを建てたご主人は残念ながら数年前に他界されてしまったとのことだが、亡きご主人とともにクラシック好きであるという奥さまが現在もその遺志を引き継ぎ、若手音楽家を育てる場として運営をされている。
今回の録音でこちらの音楽ホールが選ばれた理由は、自然豊かでインプロビゼーションをはぐくむ絶好の環境であることに加え、ホールに置かれたピアノの存在が決定的であったようだ。
「とても良いピアノがあるホールがある」という情報は、中島さんと以前から交流がある調律師の狩野 真さんからもたらされたものであったという。特にベヒシュタインについては狩野さんがリペアしたものだ。ホール近隣の別荘で眠っていたというこのピアノは1911年製で、ボロボロの状態であったものを3年がかりで修復したという。現在のピアノとは違う高域のまろやかさ、響きのふくよかさを持つ名品である。
中島さんもホールに入るやいなやまずこのベヒシュタインを弾き始め、その深みのある音色に聴き入っていた。今回の録音ではこの2台のピアノ、両方を使うという贅沢なセッションとなっていて、どちらか一方には弦にボルトやフェルトを挟み込み、不思議な響きを持つプリペアード・ピアノに仕立てるとのこと。中島さんはひと弾きした段階でベヒシュタインをメインに据えようと決めたそうだ。
「このホールは今回の録音で初めて訪れたのですが、まず駅からホールに向かうまでの風景でやられてしまいましたね(笑)。ホールでベヒシュタインを弾いたとき、とても懐かしい響きがしました。このホールのもつ自然な木の響きと窓から見える風景の雰囲気が学生時代を思い起こさせるんですね。中学、高校とミッション系だったのですが、木のぬくもりに溢れる礼拝堂で弾くピアノの音や響き、礼拝堂の窓から見える風景の思い出がよみがえってくるようでした。原体験というか、原風景に戻って弾けたんです」と中島さん。
「1台はそもそもプリペアードでやろうと決めていたんですね。ここにあるスタインウェイも個性を持っていますが、その芯にあるものはスタジオにあるものとも共通で、いわば“普段と同じ”気持ちになれる音なのです。ベヒシュタインは今まで聴いたことのない響きを持っていて、音の伝わってくる空気、“コク”とでも言い換えられますか、このコクが違うものだったので、その音色を活かしてノーマルなチューニングで弾くことにしました。スタインウェイのように既に聞いたことのあるものは、敢えてプリペアードにして新鮮な耳で聴きたい、と瞬間的に感じたんです。ベヒシュタインはすごく良かった!」
世界各国で数々の演奏経験のある中島さんも、ベヒシュタインを弾くのは今回が2度目とのこと。ジェーン・バーキンのワールドツアー中、ヨーロッパの古いホールに置かれていたベヒシュタインを演奏した際、とても感銘を受けたという。「国内スタジオではまずみかけない。思ったほど重くないが軽くもなく、深みとコクのあるタッチ」と中島さんが評価する「花場の小さな音楽舎」のベヒシュタインは、“レストアした狩野さんらしい音”がすると親しみと敬意のこもったコメントもして下さったが、「まっさらな状態の音やタッチではないが、いわゆるレコーディングスタジオに常設されたもののように、上から下まですっと綺麗にタッチが揃っているのではなく、そこに独特な重み、若干違うものが混じっているのが面白い」とさらに細かくベヒシュタインの音を分析されていた。
8chマルチトラックDSDレコーダー「Clarity」を
使ったレコーディング
続いて録音面についてもレポートしていこう。エンジニアを務めるのは、中島さんの作品をいくつも手掛ける気心の知れた奥田泰次さん(studio MSR)だ。DSDレコーディングを行う第3弾の作品作りには欠かせない環境として、ホールにはコルグの8chマルチトラックDSDレコーダー「Clarity(クラリティ)」が持ち込まれ、ピアノソロ収録では贅沢な4ペアのマイクを使ったDSD・5.6MHzマルチトラックレコーディングが実施された。
「Clarity」を採用した理由のひとつには「普段作業を行う慣れた環境で音決めができないという点で、マルチトラックならば持ち帰って調整できるというメリットがあったため」と奥田さん。「MR-2000S」を複数台リンクさせてマルチトラック録音を行うのも不可能ではないが、「Clarity」程の精度を出せるわけではなく、その操作にはストレスもあるという。
マイクはピアノのフレームに直接設置できるユニークなステレオマイク「アースワークス PM-40」とオーソドックスな位置からハンマー部を狙うペアの無指向性コンデンサーマイク「サンケン CO-100K」を音像に近いオンマイクとして設置。それとは逆に音像を遠くから狙うオフマイクとして、いわゆるバイノーラルな構成に近いステレオ無指向性マイク「T.H.E.オーディオ BS-3D」と「ショップス KFM6」が用意された。
オンとオフで2ペアずつ用意したのはスタジオのように予測で録音ができないので後々良い方を選べるようにとの配慮もあってのこと。40kHzまでの特性を持つ「PM-40」は部屋のかぶりや響きを考えず安定して録れるので、奥田さんも普段から愛用しているそうだ。
もう一つのオンマイク「CO-100K」は100kHzまで収録できる、ハイレゾ音源には必須ともいえる最新の傑作マイクだ。オフマイクでは空気感を重要視したDSD録音を行うために普段から使っているというバイノーラルな「BS-3D」に加え「KFM6」も立てたという。
ベーシックなスタイルでの録音に挑んだベヒシュタインにおけるマイクセッティングであるが、ピアノ内に「PM-40」を設置し、「CO-100K」はくびれた側板あたりからハンマー部に向け、高域側と低域側に振っている。オフマイクの「BS-3D」はピアノから3mほど離れた場所に設置。「KFM6」は7mほど離れた天井に近いロフトからホール全体の響きを拾う。
一方のスタインウェイでは「CO-100K」を響板方向に振り、「KFM6」を中島さんの背後から頭上にかけての高い位置に設置。「BS-3D」はベヒシュタインのときとほぼ同様にピアノから3m程の位置に置いていたという。
「Clarity」までのセッティングであるが、マイクプリアンプにオンマイク系は「シンプロシード SP-MP4」、オフマイク系は「アフェックス 1788A」を採用。「SP-MP4」は以前から奥田さんが気になっていたマイクアンプだったそうで、「トランスペアレントでマイクの音を色付けなく拾ってくれるのでオンマイク用に使ってみたかったんです」とのこと。
「1788A」は奥田さんが普段から活用しているマイクアンプとのことだが、色付けないサウンド性に加え、長距離ケーブルを這わせる必要があるオフマイクに対し、安定したファンタム電源供給能力を持っているので、こちらにあてがったとのこと。
ホール内でのモニターとしてタンノイのパワードモニターやシュア、ボーズのヘッドホンも用意されていたが、こちらはあくまで録音の確認用という意味で用いられていたようで、録音には使用しなかった「コルグ MR-2000S」に接続されていた。
一回サウンドチェックを含めテスト録音が行われたが、余計な雑音をマイクが拾ってしまわないよう、我々取材陣はテスト録音のプレイバックを聴き終えてから会場を後にした。このときのプレイバックは未調整の音ではあったが、会場の音をストレートに再現しており、豊潤でふくよかなベヒシュタインの音色がしっかりと感じ取れた。これがどのようなサウンドに仕上げられるのか、期待を胸に帰路についたのであった。
「DSDは、ものの形や空気の揺らぎが聴こえてくる」(中島さん)
続いて12月12日に行われた本作のマスタリングである。事前に録音内容を『サウンド&レコーディング・マガジン』の國崎 晋編集長がチェックし、インプロビゼーションのプレイを適宜抜き出して、ベヒシュタインのノーマル・プレイとスタインウェイのプリペアード・プレイ併せて10曲をまとめ上げたという。
録音の途中で引き上げた我々が初めて今回のレコーディングの全貌に触れることができる機会となったわけであるが、まず驚いたのは通常のマスタリングとは違う、“ミックス&マスタリング”の手法を取り入れて作業をしていた点だ。
「花場の小さな音楽舎」にも持ち込んでいた「Clarity」のラックセットをそのままマスタリングを行う老舗スタジオ「音響ハウス」に運び入れ、マスタリングルームでミックスダウンを行うというもの。この手法を使うメリットについて奥田さんは「マスタリングとミックスを同時にできるのは新しいし無駄のない作業ですね。音の鮮度も違います。通常トラックダウンを行った素材をマスタリングスタジオへ持ってきますが、マルチトラックレコーダーから直接入れ込むのは、録音したその場の空気感をきちんと捉えられるんですね。エンジニアとしても最後のアウトプットをそのまま聴けるのでありがたいです。リスナーに届けられる最後の形が分かるのはエンジニアにとって理想です」と語る。
4ペアのマイクの音をどのようにミックスしたのかについて奥田氏から伺ってみよう。
「まずベヒシュタインでは『PM-40』と『CO-100K』の音を混ぜて近接音を作り出しましたが、オフマイクに関してはロフト上の『KFM6』を選びました。『BS-3D』の音を足すと位相のうねりによって音場がぼやける傾向にあったので、『BS-3D』をなくしてすっきりとした余韻感を優先しています。スタインウェイでは『PM-40』を使わないことにして、『CO-100K』と『BS-3D』を基本にしました。プリペアード・ピアノでは細かいニュアンスを録らないといけないので、中島さんが作為的に演奏する感じ、中島さん目線で音を捉えるという感じです。気配やしぐさ、音の鳴っていないところの空気感も録れるようにという配慮ですね。『BS-3D』についてはほんの少し音を足してふくよかさを出しています」
録音中はスタジオのコントロールルームのように遮音性の高い空間ではなかったため奥田さん自身も息をひそめて作業を進めていたとのこと。余計な雑音が入らないように暖房も切っていたそうで、室内でも10度を切る過酷な環境での収録であったそうだ。その甲斐あって非常にS/Nの優れた録音に仕上がっており、マスタリングルームでのプレイバックを聴いた印象では、DSDならではの空間再現力の高さをうかがわせるものとなっていた。わずかな呼吸の動き、ピアノタッチやペダルを操作する音も非常に克明で生々しい。
「余韻の音伸びについては、何かしら音が録れているので切りにくいのが悩ましいところでしたね。どこまで曲を残すか、DSDということもあって微小な音も残っているので、曲間を作るときは普段とは違う難しさがあります。絞りすぎると虚無感に襲われるほどで、無音の意味を改めて実感しました」とは、マスタリングエンジニア・石井 亘さんの弁。
「音響ハウス」マスタリングルームの再生環境はスピーカーが「JBL 4338」、パワーアンプに「ゴールドムンド MIMESIS 28M」というオーディオマニアも納得の構成。マスタリング収録の工程についてであるが、「Clarity」のアナログ出力からコンプレッサー「ニーヴ 33609」を経てパラメトリックEQ「GML 9500」へ。その後A/Dコンバーター「dCS 905」で2.8MHz・DSD化し、編集機「SADiE(サディ)」へと取り込んでいる。「33609」では音量が大きくなったときのピークリミッターという役割だが、ピークもほんの少し抑える程度であったという。「9500」はコンプレッサーに対する補正で、特に最後に収録された楽曲(プリペアードをアンビエント感中心にまとめた1曲)で低域が強く感じられたので50Hz以下の帯域を少しだけ減らしたという。
「音が混ざり合いうねっている感じは残しつつ、中島さんの演奏している顔が見えるようにまとめました。収録が5.6MHzでとても情報量が多い素材だったので、パッケージでは2.8MHzとなりますが、その情報量の多さを活かしたマスタリングとしています」と石井さん。奥田さんのミックスをそのまま活かしながら、より完成度の高い作品へとまとめ上げる手腕を垣間見た気がした。
最後にDSDでまとめ上げられたご自身の演奏の感想を中島さんより伺った。
「DSDのプレイバックは“ざわっ”とした感じが聴こえてくるように思いました。ものの形や空気の揺らぎといったものですね。録音の精度が高くなるほど空気みたいな見えないものが実感できる音として聴こえてきたのが面白かったです。インプロビゼーションは楽器との出会いがとても大きいウェイトを占めます。そこから触発されるプレイともいえますね。予め演奏を準備していても、素晴らしいピアノに出会った瞬間、その準備は消し飛んでしまう。この消し飛んだときに得られるものを音として残すことが今回の目標だったわけですが、とてもその過程を楽しめた貴重な経験でしたね」と顔をほころばせる。
インプロビゼーションの予感を良い意味で演出している要素に、1曲目の冒頭、試し弾きで10〜20秒ほどの演奏し、2、3秒の静寂を経て本番が始まるという構成が用意されている。これは國崎さんのアイデアで、わざとこの“試し弾き”を残しておいてインプロビゼーションが生まれる過程をリスナーにも感じてほしいという心憎い演出なのである。
演奏に入っていく気持ちが音に出るか。インプロビゼーションの録音は常に難しさが伴うが、この試し弾きと、残した間があることで、中島さんがその瞬間、気持ちを整理して演奏に臨む姿が感じられ、演奏の躍動感が伝わってくる。中島さんも「対話し、咀嚼する過程を残しててくれたのはびっくりした」と驚きながらも非常に喜ばれている姿が印象的であった。
DSDレコーディングだからこそ再現できた、ベヒシュタインの響きが立体的な厚みとして届いてくる実感。そしてトイピアノや時折ガムランにも似た複雑な表情を見せる、プリペアード演奏の妙に近代的な浮き上がり方は何度聞いても新たな発見のある奥深い演奏となっている。特にプリペアード・ピアノで送るラストの1曲はホールの残響感を中心にまとめた実験的なテイク。
「ナチュラルに聞こえる方とは逆の面白さがあります。アンビエンスを活かし録音したときのバランスだけで構成した、エフェクトを一切使わない音量バランスだけのピュアな世界観です。部屋の音も感じ取れるテイクでしたね」と奥田さん。ぜひ特別DSDディスクを手に入れ、この素晴らしいインプロビゼーションの世界を味わっていただきたいと感じた録音&マスタリング現場であった。
後編では、パイオニアのDSDディスク再生対応SACDプレーヤー「PD-70」とプリメインアンプ「A-70」を組み合わせて、一足先にこの特別DSDディスクを試聴したレポートをお伝えする。「花場の小さな音楽舎」で実際に耳にしたベヒシュタインやスタインウェイの音色、そしてマスタリングルームで試聴したプレイバックの生々しいサウンドが、パイオニアの最新システムでどのように再現されるかに期待が高まる。
(岩井 喬)
(Photo:小原啓樹)
SACDだけでなく、DSDディスク再生を可能にしたパイオニアの新たなSACDプレーヤー「PD-70」「PD-30」「PD-10」。この新ラインナップ登場に合わせ、パイオニアでは広くDSDディスクのサウンドを味わってもらうべく、リットーミュージック『サウンド&レコーディング・マガジン』編集部の協力を得て、これまでに2回DSDディスクプレゼントキャンペーンを行ってきた。そしてシリーズ最上位モデル「PD-70」の販売も開始されより一層DSDへの関心が高まってきたこのタイミングで第3弾目となるDSDディスクプレゼントキャンペーンが展開されることとなった。
既報の通り、第3弾のディスク製作も『サウンド&レコーディング・マガジン』國崎 晋編集長のプロデュースのもと進められた。今回のディスクではジェーン・バーキンのワールドツアーで音楽監督/ピアノ演奏を担当するほか、2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の音楽も担当される、中島ノブユキさんのピアノ・ソロ・インプロビゼーションが収録されることになったのだが、その録音には八ヶ岳のふもとにある「花場の小さな音楽舎」が選ばれたのである。
自然に囲まれた個人所有の小さなホールでの収録
録音が行われた12月4日、パイオニアの開発チームとともに我々は「花場の小さな音楽舎」へ向かい、ありがたいことに収録風景の一端を取材する機会に恵まれた。この「花場の小さな音楽舎」は個人所有の音楽ホールであり、外観はロッジ風のペンションといった印象だ。ピアノが設置されている2階のホールは天井高のある空間で、ホールの入口部にはロフト席もある。天井や壁にはパイン系の板材が用いられているようで、マイルドなハリが得られる残響感には独特なぬくもりも感じることができた。
広さとしては20〜30人が入れるほどの大きさで、ホールに入ってすぐ2台のグランドピアノの存在に圧倒される。1台は都内のスタジオでも良く見かけるスタインウェイ、もう一台は細部の彫刻が年季を感じさせるクラシカルなベヒシュタインという組み合わせ。この日は小雪の舞う曇りがちの天候ではあったが、窓からは雄大な八ヶ岳の裾野を眺めることができた。周囲に住宅はなく、ただ静かに野鳥のさえずりが聞こえてくる自然豊かな環境であり、アコースティックな楽器を奏でるには理想の立地といえよう。
ホールを建てたご主人は残念ながら数年前に他界されてしまったとのことだが、亡きご主人とともにクラシック好きであるという奥さまが現在もその遺志を引き継ぎ、若手音楽家を育てる場として運営をされている。
今回の録音でこちらの音楽ホールが選ばれた理由は、自然豊かでインプロビゼーションをはぐくむ絶好の環境であることに加え、ホールに置かれたピアノの存在が決定的であったようだ。
「とても良いピアノがあるホールがある」という情報は、中島さんと以前から交流がある調律師の狩野 真さんからもたらされたものであったという。特にベヒシュタインについては狩野さんがリペアしたものだ。ホール近隣の別荘で眠っていたというこのピアノは1911年製で、ボロボロの状態であったものを3年がかりで修復したという。現在のピアノとは違う高域のまろやかさ、響きのふくよかさを持つ名品である。
中島さんもホールに入るやいなやまずこのベヒシュタインを弾き始め、その深みのある音色に聴き入っていた。今回の録音ではこの2台のピアノ、両方を使うという贅沢なセッションとなっていて、どちらか一方には弦にボルトやフェルトを挟み込み、不思議な響きを持つプリペアード・ピアノに仕立てるとのこと。中島さんはひと弾きした段階でベヒシュタインをメインに据えようと決めたそうだ。
「このホールは今回の録音で初めて訪れたのですが、まず駅からホールに向かうまでの風景でやられてしまいましたね(笑)。ホールでベヒシュタインを弾いたとき、とても懐かしい響きがしました。このホールのもつ自然な木の響きと窓から見える風景の雰囲気が学生時代を思い起こさせるんですね。中学、高校とミッション系だったのですが、木のぬくもりに溢れる礼拝堂で弾くピアノの音や響き、礼拝堂の窓から見える風景の思い出がよみがえってくるようでした。原体験というか、原風景に戻って弾けたんです」と中島さん。
「1台はそもそもプリペアードでやろうと決めていたんですね。ここにあるスタインウェイも個性を持っていますが、その芯にあるものはスタジオにあるものとも共通で、いわば“普段と同じ”気持ちになれる音なのです。ベヒシュタインは今まで聴いたことのない響きを持っていて、音の伝わってくる空気、“コク”とでも言い換えられますか、このコクが違うものだったので、その音色を活かしてノーマルなチューニングで弾くことにしました。スタインウェイのように既に聞いたことのあるものは、敢えてプリペアードにして新鮮な耳で聴きたい、と瞬間的に感じたんです。ベヒシュタインはすごく良かった!」
世界各国で数々の演奏経験のある中島さんも、ベヒシュタインを弾くのは今回が2度目とのこと。ジェーン・バーキンのワールドツアー中、ヨーロッパの古いホールに置かれていたベヒシュタインを演奏した際、とても感銘を受けたという。「国内スタジオではまずみかけない。思ったほど重くないが軽くもなく、深みとコクのあるタッチ」と中島さんが評価する「花場の小さな音楽舎」のベヒシュタインは、“レストアした狩野さんらしい音”がすると親しみと敬意のこもったコメントもして下さったが、「まっさらな状態の音やタッチではないが、いわゆるレコーディングスタジオに常設されたもののように、上から下まですっと綺麗にタッチが揃っているのではなく、そこに独特な重み、若干違うものが混じっているのが面白い」とさらに細かくベヒシュタインの音を分析されていた。
8chマルチトラックDSDレコーダー「Clarity」を
使ったレコーディング
続いて録音面についてもレポートしていこう。エンジニアを務めるのは、中島さんの作品をいくつも手掛ける気心の知れた奥田泰次さん(studio MSR)だ。DSDレコーディングを行う第3弾の作品作りには欠かせない環境として、ホールにはコルグの8chマルチトラックDSDレコーダー「Clarity(クラリティ)」が持ち込まれ、ピアノソロ収録では贅沢な4ペアのマイクを使ったDSD・5.6MHzマルチトラックレコーディングが実施された。
「Clarity」を採用した理由のひとつには「普段作業を行う慣れた環境で音決めができないという点で、マルチトラックならば持ち帰って調整できるというメリットがあったため」と奥田さん。「MR-2000S」を複数台リンクさせてマルチトラック録音を行うのも不可能ではないが、「Clarity」程の精度を出せるわけではなく、その操作にはストレスもあるという。
マイクはピアノのフレームに直接設置できるユニークなステレオマイク「アースワークス PM-40」とオーソドックスな位置からハンマー部を狙うペアの無指向性コンデンサーマイク「サンケン CO-100K」を音像に近いオンマイクとして設置。それとは逆に音像を遠くから狙うオフマイクとして、いわゆるバイノーラルな構成に近いステレオ無指向性マイク「T.H.E.オーディオ BS-3D」と「ショップス KFM6」が用意された。
オンとオフで2ペアずつ用意したのはスタジオのように予測で録音ができないので後々良い方を選べるようにとの配慮もあってのこと。40kHzまでの特性を持つ「PM-40」は部屋のかぶりや響きを考えず安定して録れるので、奥田さんも普段から愛用しているそうだ。
もう一つのオンマイク「CO-100K」は100kHzまで収録できる、ハイレゾ音源には必須ともいえる最新の傑作マイクだ。オフマイクでは空気感を重要視したDSD録音を行うために普段から使っているというバイノーラルな「BS-3D」に加え「KFM6」も立てたという。
ベーシックなスタイルでの録音に挑んだベヒシュタインにおけるマイクセッティングであるが、ピアノ内に「PM-40」を設置し、「CO-100K」はくびれた側板あたりからハンマー部に向け、高域側と低域側に振っている。オフマイクの「BS-3D」はピアノから3mほど離れた場所に設置。「KFM6」は7mほど離れた天井に近いロフトからホール全体の響きを拾う。
一方のスタインウェイでは「CO-100K」を響板方向に振り、「KFM6」を中島さんの背後から頭上にかけての高い位置に設置。「BS-3D」はベヒシュタインのときとほぼ同様にピアノから3m程の位置に置いていたという。
「Clarity」までのセッティングであるが、マイクプリアンプにオンマイク系は「シンプロシード SP-MP4」、オフマイク系は「アフェックス 1788A」を採用。「SP-MP4」は以前から奥田さんが気になっていたマイクアンプだったそうで、「トランスペアレントでマイクの音を色付けなく拾ってくれるのでオンマイク用に使ってみたかったんです」とのこと。
「1788A」は奥田さんが普段から活用しているマイクアンプとのことだが、色付けないサウンド性に加え、長距離ケーブルを這わせる必要があるオフマイクに対し、安定したファンタム電源供給能力を持っているので、こちらにあてがったとのこと。
ホール内でのモニターとしてタンノイのパワードモニターやシュア、ボーズのヘッドホンも用意されていたが、こちらはあくまで録音の確認用という意味で用いられていたようで、録音には使用しなかった「コルグ MR-2000S」に接続されていた。
一回サウンドチェックを含めテスト録音が行われたが、余計な雑音をマイクが拾ってしまわないよう、我々取材陣はテスト録音のプレイバックを聴き終えてから会場を後にした。このときのプレイバックは未調整の音ではあったが、会場の音をストレートに再現しており、豊潤でふくよかなベヒシュタインの音色がしっかりと感じ取れた。これがどのようなサウンドに仕上げられるのか、期待を胸に帰路についたのであった。
「DSDは、ものの形や空気の揺らぎが聴こえてくる」(中島さん)
続いて12月12日に行われた本作のマスタリングである。事前に録音内容を『サウンド&レコーディング・マガジン』の國崎 晋編集長がチェックし、インプロビゼーションのプレイを適宜抜き出して、ベヒシュタインのノーマル・プレイとスタインウェイのプリペアード・プレイ併せて10曲をまとめ上げたという。
録音の途中で引き上げた我々が初めて今回のレコーディングの全貌に触れることができる機会となったわけであるが、まず驚いたのは通常のマスタリングとは違う、“ミックス&マスタリング”の手法を取り入れて作業をしていた点だ。
「花場の小さな音楽舎」にも持ち込んでいた「Clarity」のラックセットをそのままマスタリングを行う老舗スタジオ「音響ハウス」に運び入れ、マスタリングルームでミックスダウンを行うというもの。この手法を使うメリットについて奥田さんは「マスタリングとミックスを同時にできるのは新しいし無駄のない作業ですね。音の鮮度も違います。通常トラックダウンを行った素材をマスタリングスタジオへ持ってきますが、マルチトラックレコーダーから直接入れ込むのは、録音したその場の空気感をきちんと捉えられるんですね。エンジニアとしても最後のアウトプットをそのまま聴けるのでありがたいです。リスナーに届けられる最後の形が分かるのはエンジニアにとって理想です」と語る。
4ペアのマイクの音をどのようにミックスしたのかについて奥田氏から伺ってみよう。
「まずベヒシュタインでは『PM-40』と『CO-100K』の音を混ぜて近接音を作り出しましたが、オフマイクに関してはロフト上の『KFM6』を選びました。『BS-3D』の音を足すと位相のうねりによって音場がぼやける傾向にあったので、『BS-3D』をなくしてすっきりとした余韻感を優先しています。スタインウェイでは『PM-40』を使わないことにして、『CO-100K』と『BS-3D』を基本にしました。プリペアード・ピアノでは細かいニュアンスを録らないといけないので、中島さんが作為的に演奏する感じ、中島さん目線で音を捉えるという感じです。気配やしぐさ、音の鳴っていないところの空気感も録れるようにという配慮ですね。『BS-3D』についてはほんの少し音を足してふくよかさを出しています」
録音中はスタジオのコントロールルームのように遮音性の高い空間ではなかったため奥田さん自身も息をひそめて作業を進めていたとのこと。余計な雑音が入らないように暖房も切っていたそうで、室内でも10度を切る過酷な環境での収録であったそうだ。その甲斐あって非常にS/Nの優れた録音に仕上がっており、マスタリングルームでのプレイバックを聴いた印象では、DSDならではの空間再現力の高さをうかがわせるものとなっていた。わずかな呼吸の動き、ピアノタッチやペダルを操作する音も非常に克明で生々しい。
「余韻の音伸びについては、何かしら音が録れているので切りにくいのが悩ましいところでしたね。どこまで曲を残すか、DSDということもあって微小な音も残っているので、曲間を作るときは普段とは違う難しさがあります。絞りすぎると虚無感に襲われるほどで、無音の意味を改めて実感しました」とは、マスタリングエンジニア・石井 亘さんの弁。
「音響ハウス」マスタリングルームの再生環境はスピーカーが「JBL 4338」、パワーアンプに「ゴールドムンド MIMESIS 28M」というオーディオマニアも納得の構成。マスタリング収録の工程についてであるが、「Clarity」のアナログ出力からコンプレッサー「ニーヴ 33609」を経てパラメトリックEQ「GML 9500」へ。その後A/Dコンバーター「dCS 905」で2.8MHz・DSD化し、編集機「SADiE(サディ)」へと取り込んでいる。「33609」では音量が大きくなったときのピークリミッターという役割だが、ピークもほんの少し抑える程度であったという。「9500」はコンプレッサーに対する補正で、特に最後に収録された楽曲(プリペアードをアンビエント感中心にまとめた1曲)で低域が強く感じられたので50Hz以下の帯域を少しだけ減らしたという。
「音が混ざり合いうねっている感じは残しつつ、中島さんの演奏している顔が見えるようにまとめました。収録が5.6MHzでとても情報量が多い素材だったので、パッケージでは2.8MHzとなりますが、その情報量の多さを活かしたマスタリングとしています」と石井さん。奥田さんのミックスをそのまま活かしながら、より完成度の高い作品へとまとめ上げる手腕を垣間見た気がした。
最後にDSDでまとめ上げられたご自身の演奏の感想を中島さんより伺った。
「DSDのプレイバックは“ざわっ”とした感じが聴こえてくるように思いました。ものの形や空気の揺らぎといったものですね。録音の精度が高くなるほど空気みたいな見えないものが実感できる音として聴こえてきたのが面白かったです。インプロビゼーションは楽器との出会いがとても大きいウェイトを占めます。そこから触発されるプレイともいえますね。予め演奏を準備していても、素晴らしいピアノに出会った瞬間、その準備は消し飛んでしまう。この消し飛んだときに得られるものを音として残すことが今回の目標だったわけですが、とてもその過程を楽しめた貴重な経験でしたね」と顔をほころばせる。
インプロビゼーションの予感を良い意味で演出している要素に、1曲目の冒頭、試し弾きで10〜20秒ほどの演奏し、2、3秒の静寂を経て本番が始まるという構成が用意されている。これは國崎さんのアイデアで、わざとこの“試し弾き”を残しておいてインプロビゼーションが生まれる過程をリスナーにも感じてほしいという心憎い演出なのである。
演奏に入っていく気持ちが音に出るか。インプロビゼーションの録音は常に難しさが伴うが、この試し弾きと、残した間があることで、中島さんがその瞬間、気持ちを整理して演奏に臨む姿が感じられ、演奏の躍動感が伝わってくる。中島さんも「対話し、咀嚼する過程を残しててくれたのはびっくりした」と驚きながらも非常に喜ばれている姿が印象的であった。
DSDレコーディングだからこそ再現できた、ベヒシュタインの響きが立体的な厚みとして届いてくる実感。そしてトイピアノや時折ガムランにも似た複雑な表情を見せる、プリペアード演奏の妙に近代的な浮き上がり方は何度聞いても新たな発見のある奥深い演奏となっている。特にプリペアード・ピアノで送るラストの1曲はホールの残響感を中心にまとめた実験的なテイク。
「ナチュラルに聞こえる方とは逆の面白さがあります。アンビエンスを活かし録音したときのバランスだけで構成した、エフェクトを一切使わない音量バランスだけのピュアな世界観です。部屋の音も感じ取れるテイクでしたね」と奥田さん。ぜひ特別DSDディスクを手に入れ、この素晴らしいインプロビゼーションの世界を味わっていただきたいと感じた録音&マスタリング現場であった。
後編では、パイオニアのDSDディスク再生対応SACDプレーヤー「PD-70」とプリメインアンプ「A-70」を組み合わせて、一足先にこの特別DSDディスクを試聴したレポートをお伝えする。「花場の小さな音楽舎」で実際に耳にしたベヒシュタインやスタインウェイの音色、そしてマスタリングルームで試聴したプレイバックの生々しいサウンドが、パイオニアの最新システムでどのように再現されるかに期待が高まる。
(岩井 喬)
(Photo:小原啓樹)