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連載:世界のオーディオブランドを知る(1)圧倒的な認知と名声「JBL」の歴史を紐解く

公開日 2024/10/02 06:30 大橋伸太郎
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■故人の志を引き継ぎながら、新体制の下で飛躍を遂げる



ジェームスと旧知の仲でスピーカーに深い関心を持つビル・トーマスは、JBLの株式を取得し経営を掌握すると、中期的な経営計画を策定した。彼は映画業界を戦場に強大なアルテックと戦うことをやめ、新天地の家庭用市場にJBLのスピーカーを送り込むことを考えた。

1950年代以前、Hi-Fiは自作マニアの占有物だった。トーマスはアメリカ人の音楽好きな国民性に新しい産業の可能性を見て、かつてアイコニックを家庭用システム「サロン」に生まれ変わらせたときのジェームスの言葉がよみがえった。「家庭で音楽を聴くための手段は美しくなければならない」。そしてリダクショナリズム(無駄な要素を整理する)から生まれた、瀟洒なキャビネットをまとった家庭用システム、C40「ハークネス」が誕生する。

トーマスは企業イメージの確立に印象的なビジュアルが欠かせないと判断し、シンボルのアイコニックマークをフィーチャーし、フランク・シナトラやビング・クロスビーはじめ、JBLを愛用するセレブたちが登場する雑誌広告を全国に展開した。1954年、ブランディングのシンボルとして登場したのが、その後も連綿と続くJBLプロジェクト・スピーカーの第一弾「D30085 ハーツフィールド」である。

「D30085 ハーツフィールド」

コンプレッションドライバー+ホーンと15インチウーファーで構成されたハーツフィールドは、モノラル時代のコーナー置きシステムとして “世界最高のスピーカー” の評価を得て、家庭用分野でのJBLの声望を決定づける。モノラルからステレオへHi-Fiの主流が移ろうとしていた。

そして1957年、JBLプロジェクト・スピーカー第二作「DD44000 パラゴン」が誕生。エンクロージャーデザインはデザイナー・アーノルド・ヴォルフが手掛けた。ステレオ音響効果と視覚上のインパクト、そして優美さが融合した、20世紀のインダストリアルデザインの傑作である。

「D44000 パラゴン」

そこからは向かうところ敵なしの快進撃が始まる。S7「オリンパス」(1960年)では優美な格子グリルを初めて採用した。エレクトロニクスへの進出もこの時期のことだ。蜜月関係だったマッキントッシュと訣別し、1963年にはトランジスタアンプ「SE401」、1965年には昨年21世紀に甦った名作プリメイン「SA600」を送り出す。

1960年代後半、レコード産業は変化の大波に洗われていた。マルチトラック録音の進展、若者の音楽の爆発的なマーケット拡大である。「新しいモニタースピーカーを設計してほしい」。そう請うたのは、やはりカリフォルニアに本拠地を構えるキャピトルレコードであった。1962年にJBLは、スタジオモニター「C50SM」を完成。瞬く間にキャピトルの全スタジオに設置される。

ザ・ビートルズ旋風真っ只中の1965年、かれらの二度目の北米ツアーに同行したジョージ・マーティンは北米におけるレコード発売元を訪れた。そこで彼は、灰色のエンクロージャーのモニタースピーカーのダイナミズム溢れる再現力にショックを受け、一組をイギリスへ持ち帰った。JBLが海を渡った日である。1968年、画期的な耐入力性とフラットレスポンスのスタジオモニター「4320」、録音現場の要請に応えたコンパクトなモニタースピーカー「4310」が誕生。現在まで続くJBLプロフェッショナルの象徴、4桁シリーズがこの時始まる。

■シドニー・ハーマン体制下、家庭用とプロ機器市場を制する



1969年にビル・トーマスは、JBLをDr.シドニー・ハーマン率いるハーマン・カードン社に売却する。JBLはハーマンインターナショナルと名前を変えた企業の傘下に入り、パラゴンのデザイナー、アーノルド・ヴォルフが新社長となる。ハイファイはもはや裕福な年配の購買層だけのものではない。そうして登場したのがブックシェルフ「L100センチュリー」である。

パラゴンのデザイナー・アーノルド・ヴォルフ氏

シンボルのコンプレッションドライバー+ホーンの代わりにダイレクトラジエターを採用。縦横に溝が走るカラフルなウレタンフォームのグリルをまとったL100は目論み通り大ヒットし、「L26ディケード」はじめ、よりリーズナブルな価格のJBLスピーカーが続々と登場。ホームオーディオ市場に旋風を巻き起こす。

同時にこの時期、プロフェッショナル市場でもJBLが広く深く勢力を広げていく。1970年代、16トラック録音が普及し、音楽のダイナミックレンジ、Fレンジも拡大の一途にあった。新時代のモニターとして1973年、JBLが送り出した初の15インチウーファー・4ウェイモニターシステムが「4350」である。画期的な耐入力性と高アウトプット、広い再生帯域をそなえた4350は賞賛を持って迎えられ、 “ラージフォーマット” シリーズとして4桁マルチウェイシステムが続々と送り出されていく。

なかでもシリーズ最大のヒット作が、1976年の4ウェイシステム「4343」だ。おりしも日本はオーディオブームの真只中。しかも為替変動で円高時代が到来し、憧れのJBLモニターが並行輸入でサラリーマンの手に届くようになり、4343が六畳間に進出した。ピーク時には日本で一カ月に300本売れ、JBLノースリッジの工場長が「いったい、日本には何百の録音スタジオがあるのだ!」と天を仰いだという愉快なエピソードがある。

コンシューマー市場とプロフェッショナル市場を制したJBL。残すところは慎重に距離を置いた映画興行業界だったが、ついに好機が到来する。1970年代半ばにドルビーステレオ(家庭用はドルビーサラウンド)が考案され、立体音響が再燃した映画業界。1989年には、映画館の再生環境まで含めトータルな高音質化を提案するパッケージ「THX」がルーカスフィルム社から提案される。

映画界では、1953年に映画芸術科学アカデミーから標準システムの認定を受けたジェームスのアルテック時代の遺産VOTTが「鉄板」だったが、誕生から44年が経ち、THXの要求するクオリティに達しないことは明らかだった。アルテック社は経営上の問題を抱え、工場移転の時期と重なりTHXに対応した新製品を開発する体力がなかった。

同じ頃JBLは、バイラジアルホーンを中心にした劇場用システムを映画芸術科学アカデミーで公開、賞賛を博した。このシステムがTHXスタンダードに発展する。永遠に続くかと思われた映画業界でのアルテックの治世は終焉の時を迎えた。JBLはとうとう映画音響市場を制したのである。1970年代終わりにダイナソーロックとも称された産業ロックがアメリカ音楽市場を制圧、数万人を飲み込む大会場がロックコンサートの舞台となった。映画館をはるかに上回る大音量再生に耐えるサウンドシステムを開発する技術を持つのは、JBLをおいて他になかった。プロ機器市場の “トップマニュファクチャラー” JBLが誕生する。

初期のTHX認定システム

家庭用システムは、世界的なオーディオ市場の伸長を背景に発展に継ぐ発展を遂げ、アジア、とりわけ日本市場でJBLプロジェクト・スピーカーは神話の域に達した。「EVEREST DD55000」(1985年)、「K2 S9500」(1989年)、21世紀に入り「K2 S9800」(2001年)、60周年記念プロダクト「EVEREST DD66000」(2006年)が発売された。一方スタジオモニターは、バイラジアル→ソノグラスへホーンの形態を変えて、たゆみない発展進化を続ける。

「EVEREST DD66000」

家庭用スピーカーに録音スタジオ、映画業界、そしてPA機器。すべてを制したJBLは現代の生ける神話だが、今や車載用スピーカーやBluetoothスピーカーの分野においても世界売上No,1となっているほか、ヘッドホン・イヤホン製品も累計販売台数2億台を突破している。胸躍らせるストーリーはこれからも続くに違いない。再来年2026年、JBLは創立80年を迎えるのだ。



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