公開日 2018/10/03 14:40
<日本のオーディオ その「哲学」と「音楽」>
国産ハイエンドを代表するブランド「AUDIO NOTE」。その哲学と音楽を同社社長が語る
石原 俊
これまで歴史的な銘機達を世に送り出してきた日本のオーディオブランド。その中でもとりわけ世界中のオーディオファイルにとって憧れの存在として君臨し続けるブランドがオーディオ・ノートだ。数多くのブランドが「世代交代」をテーマとする昨今にあって創業者、近藤公康の想いを引き継いだ現在の姿の背景には、どのような物語があるのだろうか。
■創業者、近藤公康が世界に遺した足跡
オーディオ・ノートの創業は昭和51年。すでに半世紀近い歴史を有する同社は、いまや世界的ハイエンド・ブランドとして先鋭的な愛好家から羨望の眼差しを集める存在へと登りつめた。創業者の故近藤公康(こんどう・ひろやす)は昭和16年、北海道生まれ。東洋大学卒業後、ティアックに入社して地震波を記録するレコーダー等の開発に携わった。その後、CBSソニーに転職し、録音機材の開発に関わることになる。
独立するきっかけを作ったのは調整卓の入力部のイノベーションだった。昔の調整卓のバランス入力はトランス受けだったのだが、真空管方式からトランジスタ方式への変化に伴ってトランスが省かれるようになった。確かに音はクリアになったが、何かが足らない。ひょっとするとトランスはオーディオにとって非常に大切な技術ではないだろうか。そんな思いから近藤はオーディオ・ノートを興したという。
オーディオ・ノートが立ち上がった頃のオーディオ業界において、MC型カートリッジの昇圧はソリッドステート式のヘッドアンプが注目を集めていた。昇圧トランスは時代遅れ、という説すらあったほどである。しかしながらオーディオ・ノートの4N純銀巻線昇圧トランスは、主に海外の市場で大きく評価された。
それ以来、銀という素材はオーディオ・ノートのトレードマークのような存在となり、コイルが銀線のMCカートリッジや銀線ケーブルなどを発売して世界のオーディオ愛好家の耳目を集めることになる。
現在のオーディオ・ノートの製品群の礎となったのが、平成元年に発表したONGAKUというステレオパワーアンプである(セレクターとボリュームを有しているが、利得が高くないことから同社ではパワーアンプに分類)。
このモデルは外洋クルーザーに取りつけるために製作した特注品を一般化したもので、極めて贅沢な作りになっていた。終段は大型直熱三極管211のシングル。銀素材が随所に投入されているのがすごい。純銀巻線出力トランスや純銀配線材や純銀箔コンデンサといったパーツは全て自社製で、回路はひとつひとつていねいに手配線されている。
これだけの内容であるから、音が悪いわけはない。この高音質に目をつけたひとりのイギリス人がいた。彼はAUDIONOTEUKを立ち上げ、このONGAKUを世界の富裕層に販売した。ところが、彼は自分で作った真空管アンプをAUDIONOTEUKブランドで売り始めたのである。近藤は抗議したが、どうにもならなかった。後にAUDIONOTEUKとは関係を断つことができたものの、海外ではAUDIONOTEならぬKONDOというブランドで販売されることになる。
そんなアクシデントはあったものの、オーディオ・ノートは順調に社業を発展させていった。ところが、平成18年初頭にラスベガスで開催されていたCES(コンシュマーズ・エレクトロニクス・ショウ)のさなかに近藤は急逝してしまった。残されたスタッフはさぞ周章狼狽したことであろう。
ここで登場するのが二代目社長の芦澤雅基(あしざわ・まさき)である。芦澤は昭和42年、神奈川県横浜市生まれ。音響技術専門学校電子音響科卒業後、あるオーディオメーカーで3年間勤務した後、オーディオ・ノートに転職した。
■さらなる高みを目指した二代目社長と開発者
芦澤がまず行ったのは、近藤というカリスマを失ったことによるイメージダウンを最小限に抑えることだった。そのためにはサウンドの傾向を変えずに、さらなるクオリティアップを図らなければならない。彼は銀という素材や、直熱三極管へのこだわりを捨てることなく、より安全で安心して使うことのできる製品作りを行う一方で、さらなる高みにまで登りつめることを目指した。また、平成19年に本社を東京都品川区から川崎市幸区に移し、同21年に国内での販売を再開した。
芦澤体制の成功の象徴ともいえるのが、同社初のレコードプレーヤーGINGAである。設計を担当したのは現チーフデザイナーの廣川嘉行(ひろかわ・かつら)。廣川は昭和47年、佐賀県佐賀市出身。偶然にも芦澤と同じ音響技術専門学校電子音響科を経て、オーディオ・ノートに入社した。一時は同社を離れたものの、再びオーディオ・ノートへと戻り、現在の同社製品開発の指揮を採る。
■創業者、近藤公康が世界に遺した足跡
オーディオ・ノートの創業は昭和51年。すでに半世紀近い歴史を有する同社は、いまや世界的ハイエンド・ブランドとして先鋭的な愛好家から羨望の眼差しを集める存在へと登りつめた。創業者の故近藤公康(こんどう・ひろやす)は昭和16年、北海道生まれ。東洋大学卒業後、ティアックに入社して地震波を記録するレコーダー等の開発に携わった。その後、CBSソニーに転職し、録音機材の開発に関わることになる。
独立するきっかけを作ったのは調整卓の入力部のイノベーションだった。昔の調整卓のバランス入力はトランス受けだったのだが、真空管方式からトランジスタ方式への変化に伴ってトランスが省かれるようになった。確かに音はクリアになったが、何かが足らない。ひょっとするとトランスはオーディオにとって非常に大切な技術ではないだろうか。そんな思いから近藤はオーディオ・ノートを興したという。
オーディオ・ノートが立ち上がった頃のオーディオ業界において、MC型カートリッジの昇圧はソリッドステート式のヘッドアンプが注目を集めていた。昇圧トランスは時代遅れ、という説すらあったほどである。しかしながらオーディオ・ノートの4N純銀巻線昇圧トランスは、主に海外の市場で大きく評価された。
それ以来、銀という素材はオーディオ・ノートのトレードマークのような存在となり、コイルが銀線のMCカートリッジや銀線ケーブルなどを発売して世界のオーディオ愛好家の耳目を集めることになる。
現在のオーディオ・ノートの製品群の礎となったのが、平成元年に発表したONGAKUというステレオパワーアンプである(セレクターとボリュームを有しているが、利得が高くないことから同社ではパワーアンプに分類)。
このモデルは外洋クルーザーに取りつけるために製作した特注品を一般化したもので、極めて贅沢な作りになっていた。終段は大型直熱三極管211のシングル。銀素材が随所に投入されているのがすごい。純銀巻線出力トランスや純銀配線材や純銀箔コンデンサといったパーツは全て自社製で、回路はひとつひとつていねいに手配線されている。
これだけの内容であるから、音が悪いわけはない。この高音質に目をつけたひとりのイギリス人がいた。彼はAUDIONOTEUKを立ち上げ、このONGAKUを世界の富裕層に販売した。ところが、彼は自分で作った真空管アンプをAUDIONOTEUKブランドで売り始めたのである。近藤は抗議したが、どうにもならなかった。後にAUDIONOTEUKとは関係を断つことができたものの、海外ではAUDIONOTEならぬKONDOというブランドで販売されることになる。
そんなアクシデントはあったものの、オーディオ・ノートは順調に社業を発展させていった。ところが、平成18年初頭にラスベガスで開催されていたCES(コンシュマーズ・エレクトロニクス・ショウ)のさなかに近藤は急逝してしまった。残されたスタッフはさぞ周章狼狽したことであろう。
ここで登場するのが二代目社長の芦澤雅基(あしざわ・まさき)である。芦澤は昭和42年、神奈川県横浜市生まれ。音響技術専門学校電子音響科卒業後、あるオーディオメーカーで3年間勤務した後、オーディオ・ノートに転職した。
■さらなる高みを目指した二代目社長と開発者
芦澤がまず行ったのは、近藤というカリスマを失ったことによるイメージダウンを最小限に抑えることだった。そのためにはサウンドの傾向を変えずに、さらなるクオリティアップを図らなければならない。彼は銀という素材や、直熱三極管へのこだわりを捨てることなく、より安全で安心して使うことのできる製品作りを行う一方で、さらなる高みにまで登りつめることを目指した。また、平成19年に本社を東京都品川区から川崎市幸区に移し、同21年に国内での販売を再開した。
芦澤体制の成功の象徴ともいえるのが、同社初のレコードプレーヤーGINGAである。設計を担当したのは現チーフデザイナーの廣川嘉行(ひろかわ・かつら)。廣川は昭和47年、佐賀県佐賀市出身。偶然にも芦澤と同じ音響技術専門学校電子音響科を経て、オーディオ・ノートに入社した。一時は同社を離れたものの、再びオーディオ・ノートへと戻り、現在の同社製品開発の指揮を採る。