【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち
第18回:山下洋輔さんが語る「ピットイン」の伝説と出会い<前編>
今回は、特別編として、「ピットイン」の創成期からステージに立ち続けている世界的なミュージシャン、山下洋輔さんに登場していただき、佐藤良武さんとの対談形式で、ジャズを志した経緯から、ピットインとの深い関わりや思い出を語ってもらう。
母親の影響で小さい頃からピアノに触れ
完全におもちゃみたいな感じで弾いていた
子供のころからピアノが大好き
ヴァイオリンで基礎を学んだ
佐藤良武(以下、佐藤): さて、今回はいよいよ山下洋輔さんの登場です。この方なくして「ピットイン」は語れません。さっそくですが、子供のときの話からいきましょう。そもそも音楽は、どういうきっかけで始めたんですか。
山下洋輔(以下、山下): 一にも二にも母親の影響が大きいですね。嫁入り道具のひとつがピアノで、日常的にシューベルトやショパンを生で聴ける家に育ちました。姉はピアノを習っていましたが、戦争で中断して、兄は興味を示さなかったみたいです。もっとも兄は後年ドラムをやりだして、ぼくをジャズの道に導いてくれたんですがね。小学校にあがる前からピアノは大好きでしたね。その頃、近所の子供が母親にピアノを習いに来ていて、そのバイエルの音を憶えていて、後で弾いたりすると母は喜んでいました。
佐藤: 天才です。
山下: いや簡単な音なんですよ。母は楽譜を持ってきて「いまあなたの弾いたのはこれです。さあ勉強しましょう」と言うんです。それはイヤだと拒否していました。いま考えるとこれがもうジャズの始まりですよ(笑)。勝手に弾いて楽しいのに、なぜ楽譜で勉強しなくてはならないのか。子供心にわかったんです。これはイヤな世界だと(笑)。
佐藤: ピアノはおもちゃだった。
山下: そう、完全におもちゃ。聴こえてくる音、たとえば小学唱歌やクリスマスの賛美歌のメロディを右手で弾いて、左手で和音をつけたりするのが大好きでした。
佐藤: 10歳になって、福岡県の田川市にお父さんの転勤で引っ越しますね。
山下: そこは炭鉱の街で、毎日ボタ山で遊ぶからいつも手が真っ黒です。母はその手でピアノを触らせないように、鍵をかけたこともありました。それで何を思ったのか、ヴァイオリンをやりなさいと言いだしたんですね。とてもよい先生に習うことができて、音楽の基礎を学ぶという点で大きかったです。
佐藤: それはイヤではなかった?
山下: すんなり始めましたね。これは上達すると褒められてうれしい。ただ自分勝手におもしろい演奏をやってみようという気持ちは全然起きなかった。ピアノは依然としておもちゃとして弾いていました。
兄の影響でジャズへのめり込み
大学入学前にプロで2年過ごした
佐藤: 数年後に東京へ戻って来ます。
山下: 中学3年のときに、大学生だった兄がジャズ・バンドを始めた。家で練習しているのを聴いているうちにすっかり憶えちゃった。バンドにはピアノがいなくて、ぼくがいたずら弾きを出来ることを知っていた兄が「おまえ、やりたいなら入っていいよ」と。このひと言が将来を決めた(笑)。やってみると和音がいままでとは違う。ギターの人が、こういう和音をジャズではコードっていうんだよと教えてくれた。そこからコードの世界を探りだして、それがもう楽しくてね。ジャズは音もリズムもメロディもかっこいい。どんどん惹かれていきました。いろんなアマチュアバンドを聴きに行ったり、つてを頼って教えてもらった。そこから一直線です。
佐藤: ヴァイオリンはどうなったんですか。
山下: 中3の頃までやっていました。母親の望みはとにかくぼくをクラシック奏者にしてオーケストラに入れて、客席からそれを見たいということだったんですね(笑)。まあ、後年、別の音楽ですが、オーケストラとやっている姿を見てはもらえましたけどね。
佐藤: 高校は麻布高校ですから、進学校ですよね。
山下: 高校生になったころには、すでに音楽の道に進めたらいいなと思ってましたね。文化祭ではバンドを組んで演奏しました。高3になってプロから電話がかかってきました。
佐藤: すごいですね。
山下: レギュラーのピアニストが休むと、トラ(代役)を探さなくてはならない。高校生ならギャラが安いし。
佐藤: ある意味、トラというのはチャンスなんですよね。プロに交じってどんなジャズをやっていたんですか。
山下: 当時はダンス音楽も総じてジャズと言っていましたけど、そういうお酒とダンス用の音楽ですね。新宿の雑居ビルにあった小さなクラブでね。でも隙を見て思いっきりジャズをやる。すると支配人が飛んできて怒られる(笑)。
佐藤: 踊れないじゃないかってね。そのままプロにならず国立音大に進みました。
山下: お金をもらえるのでこのままでいいやと思っていたんですが、親は大反対しました。よくあるパターンで「とりあえず大学に行きなさい」と。それを無視して2年間ほどプロ活動しちゃったんですけどね。最後の世代かもしれませんが、立川や横田の米軍基地で演奏もしました。
母親の影響で小さい頃からピアノに触れ
完全におもちゃみたいな感じで弾いていた
子供のころからピアノが大好き
ヴァイオリンで基礎を学んだ
佐藤良武(以下、佐藤): さて、今回はいよいよ山下洋輔さんの登場です。この方なくして「ピットイン」は語れません。さっそくですが、子供のときの話からいきましょう。そもそも音楽は、どういうきっかけで始めたんですか。
山下洋輔(以下、山下): 一にも二にも母親の影響が大きいですね。嫁入り道具のひとつがピアノで、日常的にシューベルトやショパンを生で聴ける家に育ちました。姉はピアノを習っていましたが、戦争で中断して、兄は興味を示さなかったみたいです。もっとも兄は後年ドラムをやりだして、ぼくをジャズの道に導いてくれたんですがね。小学校にあがる前からピアノは大好きでしたね。その頃、近所の子供が母親にピアノを習いに来ていて、そのバイエルの音を憶えていて、後で弾いたりすると母は喜んでいました。
佐藤: 天才です。
山下: いや簡単な音なんですよ。母は楽譜を持ってきて「いまあなたの弾いたのはこれです。さあ勉強しましょう」と言うんです。それはイヤだと拒否していました。いま考えるとこれがもうジャズの始まりですよ(笑)。勝手に弾いて楽しいのに、なぜ楽譜で勉強しなくてはならないのか。子供心にわかったんです。これはイヤな世界だと(笑)。
佐藤: ピアノはおもちゃだった。
山下: そう、完全におもちゃ。聴こえてくる音、たとえば小学唱歌やクリスマスの賛美歌のメロディを右手で弾いて、左手で和音をつけたりするのが大好きでした。
佐藤: 10歳になって、福岡県の田川市にお父さんの転勤で引っ越しますね。
山下: そこは炭鉱の街で、毎日ボタ山で遊ぶからいつも手が真っ黒です。母はその手でピアノを触らせないように、鍵をかけたこともありました。それで何を思ったのか、ヴァイオリンをやりなさいと言いだしたんですね。とてもよい先生に習うことができて、音楽の基礎を学ぶという点で大きかったです。
佐藤: それはイヤではなかった?
山下: すんなり始めましたね。これは上達すると褒められてうれしい。ただ自分勝手におもしろい演奏をやってみようという気持ちは全然起きなかった。ピアノは依然としておもちゃとして弾いていました。
兄の影響でジャズへのめり込み
大学入学前にプロで2年過ごした
佐藤: 数年後に東京へ戻って来ます。
山下: 中学3年のときに、大学生だった兄がジャズ・バンドを始めた。家で練習しているのを聴いているうちにすっかり憶えちゃった。バンドにはピアノがいなくて、ぼくがいたずら弾きを出来ることを知っていた兄が「おまえ、やりたいなら入っていいよ」と。このひと言が将来を決めた(笑)。やってみると和音がいままでとは違う。ギターの人が、こういう和音をジャズではコードっていうんだよと教えてくれた。そこからコードの世界を探りだして、それがもう楽しくてね。ジャズは音もリズムもメロディもかっこいい。どんどん惹かれていきました。いろんなアマチュアバンドを聴きに行ったり、つてを頼って教えてもらった。そこから一直線です。
佐藤: ヴァイオリンはどうなったんですか。
山下: 中3の頃までやっていました。母親の望みはとにかくぼくをクラシック奏者にしてオーケストラに入れて、客席からそれを見たいということだったんですね(笑)。まあ、後年、別の音楽ですが、オーケストラとやっている姿を見てはもらえましたけどね。
佐藤: 高校は麻布高校ですから、進学校ですよね。
山下: 高校生になったころには、すでに音楽の道に進めたらいいなと思ってましたね。文化祭ではバンドを組んで演奏しました。高3になってプロから電話がかかってきました。
佐藤: すごいですね。
山下: レギュラーのピアニストが休むと、トラ(代役)を探さなくてはならない。高校生ならギャラが安いし。
佐藤: ある意味、トラというのはチャンスなんですよね。プロに交じってどんなジャズをやっていたんですか。
山下: 当時はダンス音楽も総じてジャズと言っていましたけど、そういうお酒とダンス用の音楽ですね。新宿の雑居ビルにあった小さなクラブでね。でも隙を見て思いっきりジャズをやる。すると支配人が飛んできて怒られる(笑)。
佐藤: 踊れないじゃないかってね。そのままプロにならず国立音大に進みました。
山下: お金をもらえるのでこのままでいいやと思っていたんですが、親は大反対しました。よくあるパターンで「とりあえず大学に行きなさい」と。それを無視して2年間ほどプロ活動しちゃったんですけどね。最後の世代かもしれませんが、立川や横田の米軍基地で演奏もしました。