SOUND CREATE LOUNGEの話題のイベント「オーディオ哲学宗教談義」
【対談】オーディオは本当に進歩したのか<第3回> 哲学者・黒崎政男氏と宗教学者・島田裕巳氏が語る
プロテスタント的オーディオとカトリック的オーディオ
黒崎 公演にこだわるキース・ジャレットのような人とは真逆のピアニストがいます。初期の頃は演奏会もやっていたけれど、30歳くらいでライブをやらないことを宣言して、それからはスタジオ録音だけをするという人。グレン・グールドですね。有名な「コンサート・ドロップアウト」。つまり、その演奏に観客は不在だった。スタジオで録音・調整して、オーディオで再生された音そのものが初めて公開された音ということになる……ということで、グレン・グールドのLPレコードを。平均律の第2巻ですね。1967年の録音になります。B面の頭、第6番をお聴きください。
〜グレン・グールド「平均律 第2巻 第6番」を試聴〜
(LP) 〜LP12 + KLIMAX EXAKT 350
島田 グレン・グールドに信仰はあった?
一同(笑)
島田 バッハを弾くということと信仰はどういう関係があるのだろうかと思って。
黒崎 それは難しい質問ですね。例えば、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明さんは、同時に非常に深い信仰をお持ちですけど。でも、多くの演奏家たちは信仰心から弾いているのかどうか。グールドはどういう風に感じました?
島田 あんまりなさそうですね。僕はそこをちょっと危惧していましてね。話は少しそれますけど、「身延」という能がありまして、その復曲に知り合いが関わっているので横浜能楽堂に観に行ったんです。身延というのは日蓮が佐渡流罪を許されてから隠棲していた場所で、この演目でも日蓮が出てくるのですが、日蓮役のシテが今のお坊さんが正装したみたいな格好をしてでてくるんです。日蓮は隠遁して山の中にいるわけですから、そんな恰好するわけないんです。能というのは本来宗教的、仏教的なものなのであって、幽玄の世界ですから、その雰囲気が必要です。ところが、今の能楽師はその点の理解があまりない。それは、他の能を見たときにも感じるところですね。
黒崎 逆に、例えば、ルター派のプロテスタントの信仰がないとバッハは弾けない、あるいは聴けないということになると、それはそれでまた大きな問題かと思いますけれども。
島田 でも、バッハ自体は宗教的な試みじゃないですか。
黒崎 バッハが曲を作ったのはそうです。でも、クリスチャンではない私もバッハ命だったのは、神に向かっているバッハの人間としてのベクトルを見ていたからです。だから聴く方も宗教的なことがないと聴けないとは思わないです。
島田 だけど、黒崎さんがヨーロッパに生まれていたら素直に信仰持つと思うよ。
黒崎 ん〜、どうかな(笑)。
島田 キースについてはそういった宗教的なものは感じます。タイトルが『クリエイション』(2015)、創造ですから。以前発売したソロ・アルバムのタイトルも『Testament』(2009)、契約だし。彼の音楽の根底にはゴスペルが入っています。彼自身が信仰をどう捉えているかわからないけど、彼の演奏、とくにソロには宗教的なものがあって、だからこそソロが成り立ってきたんではないかなと。
黒崎 キースの最近の音楽は、では、解脱(げだつ)した世界でしょうか?
島田 昔とは違いますよね。非常に神聖な感じ。もう一曲聴きましょうか。日本に来た時のオーチャードホールのものです。オーディオ的には、ホールの違いがどう出てくるかというところに注目していただきたいです。
〜キース・ジャレット『クリエイション』より「パート6 bunkamuraオーチャードホール」を試聴
(48kHz/24bit) 〜KLIMAX DS/3 + KLIMAX EXAKT 350
黒崎 既存宗教、カトリックやプロテスタントなどという具体的な特定の宗教ということではないけれど、よりハイヤー(higher)なものに対する何かという感じがキース・ジャレットの音楽にはする。宗教といっても、むしろ個人的なものというか。
というのは、一回目の時にブルックナーの8番をおかけしたんですけれども、あれは音楽を聴いているというより宗教的体験といいますか、ハイヤー、崇高性。音楽を聴いているというより宗教体験をしている感じがすごくする。広い意味で「宗教的なるもの」というか。見えざるものに対する何か。そういうことで言えば、いまのキース・ジャレットを聴くと、そういった宗教的なものを感じる。「なぜ音楽をやるのか」をそういうレベルで演奏されている感じがする。
島田 いまグールドを聴くと、信仰の裏打ちがなくて物足りない気がするんですよね。どうです?
黒崎 いや、グールドは、異端で出てきてた、こんなヘンテコな演奏と言われて、最初のうちは吉田秀和氏あたりが評価していたくらいでした。でもいま、グールドは誰もが褒めるようになりました。こういう風になるとは思わなかった。私は、今も昔もグールドをいいと思いますが。
島田 グールドは家のスタジオにひとりいるわけじゃないですか。でもキースの場合だと、コンサートだからそこに聴いている人がいるわけです。
黒崎 その場の呼吸やざわつきとともにある。
島田 今の録音技術だと、音楽が観客に吸収されている感じまで出てくる。いわゆるスピリチュアル的な部分は、交流があるがゆえに成り立っています。だけど、グールドの場合にはそれがないから。
黒崎 孤独というか、世界と切り離されている感じ。
島田 プロテスタントの福音信仰みたいな。
黒崎 グールドはプロテスタントで、キースはカトリック的?
島田 カトリックじゃないですね。オーディオというのは3つに分けて考えた方がいいんじゃないかと。ひとつはデジタルという「解脱の世界」で、仏教的な。もうひとつは、例えばインターナショナルオーディオショウでお目にかかれる超高額なスピーカーで聴くもので、例えば、巨大なホーンのアバンギャルドなどがそうですが、スピーカーからは音が降ってくる、上から降臨してくるような感じなんです。これは以前「The Sonus faber」を聴いたときも同じでした。ピエガの「Master Line Source2」もそんな感じがします。つまり、これらはカトリック的なんです。
一同(笑)
島田 そうした超弩級のスピーカーを聴くと、どうでもよくなるんですよ。この音はうちじゃ無理。こういう世界がある。しかし「これはこれ」と諦めがつく。一方で、一般的なオーディオの世界というのは、いろんなものを組み合わせることによっていい音を目指してきました。プロテスタントは、個々人が聖書を読んで、そこから自らの信仰を確立していくので、これがプロテスタント的。
黒崎 ……あぁ。
一同(笑)
黒崎 昔のウェスタン・エレクトリックの装置の方がずっとすごいと思いますが……。それはさておき、デジタルの音が解脱(げだつ)という表現は実際その通りで、1920年、50年、70年・・・どんな時代のものもハイレゾ化して0/1の世界に置き換えてしまうと、私にはみんな等距離に感じてしまうんです。つまり、その時代が持つ時代性から離れて歴史性を失くして、purifyされてしまう。解脱といえば解脱。それは非常にピュアだけども、面白くない……とも言える。
実は昨日「地獄ワンダーランド」というのを三井記念館で観てきました。いかに地獄絵が変遷してきたかという……。
島田 それは偶然ですね。僕も昨日、兵庫県の芦屋に行ってカルチャーセンターで講義をした後、奈良の国立博物館に行ったんですよ。なにを観に行ったかというと、源信。要するに往生要集の世界。往生要集は、地獄のマニュアル本ですね。
黒崎 あぁ、そう。なんだか私たちシンクロしていますね(笑)。実は自分の家にも閻魔大王があるんですよ。50cm高くらいの木造で、江戸時代くらいのものなんですけど。
島田 どうかしているよね(笑)。
黒崎 昨日、地獄絵を見に行って面白かったのは、地獄はバラエティが豊富なんです。地獄に対する人間の想像力はものすごいけど、逆に天国は非常に単純なんですよ。お釈迦様がいて、蓮のつぼみが浮いてと画一化されてバラエティがない。
それに関連して話をつけるとすると、デジタルの解脱した姿というのは、まさにお釈迦様が蓮のところを歩いているような、purifyされた夾雑物がないもの。一方、地獄は夾雑物があるようなアナログで、でも我々はそこに時代を聴いているのかもしれない。想像上だとしても50年代のアメリカをそこに見出して聴いているのかもしれない。奇しくも地獄の多様性と天上界の画一性というものに、アナログとデジタルを連想しました。
島田 人間って苦しいことはいくらでも思い浮かぶけど、本当に何を求めているのかということを表現するのは非常に難しい。
黒崎 天国に行ったとして、俺たち何して過ごせばいいんだろうって思いません? あの池を一生散歩しているのかなぁ。なんか、つまらなくないかなあ、と思ったりします。
島田 ……。
一同(笑)