前回は、音楽芸術は抽象であり、それを再生するオーディオは、人の心に密接に結びつく特殊な機械だという話をしました。一般の家電製品と同じと見られがちですが、大きく違うものだということは認識しておいてください。確かに一部のオーディオ製品には、家庭電気製品と同じようなものもあります。しかしこれからここで取上げようとしている、魅力のある、本格的なオーディオ製品は全く違う次元に存在します。だから趣味になり得るのです。家電製品を趣味にする人はあまりいないでしょう。
さて、オーディオと極めて近い世界にあると思われている、映像と音を扱う「オーディオビジュアル機器」と、「オーディオ機器」の違いを見てみましょう。前回お話ししたようにオーディオは抽象、ビジュアルはその名の通り具象で、全く対極にあるものです。鑑賞者にとって、具象は具体的で説明的ですが有限です。抽象は非説明的ですが無限の想像に働きかけます。ビジュアル=具象にも、抽象の音が寄り添いますから、無関係というわけではありません。しかし、ここでの音は補助的な役目であり、主役はあくまでも視覚の対象である映像だといえます。
オーディオビジュアル機器とオーディオ機器とでは技術的な共通点が多いものです。両者ともにエレクトロニクスや機械系、そして光学的なメカニズムなどでできているわけですから、作る技術は殆ど共通といっても良い。ですから大きなメーカーは大体その両方を手掛けています。しかし使う上での目的が全く違うのに、作る技術が似ているだけで、肝心の作品のカテゴリー(分野)を混同してはいけません。
デジタル化の進展で、再生するメディアも、オーディオとビジュアルでは共通の技術的な基盤を持つようになりました。わかりやすい例でいうと、音楽を再生するCDと、映像を再生するDVDの一族。ちょっと見には同じですね。それでこの両者はますます混同されるようになりました。
似てはいるが二つの異なる作品の世界の区別に、私がよく例として取上げるものにパントマイムがあります。これは舞台演劇のカテゴリーのひとつです。このパントマイムには台詞はありません。そこにこそ、そのカテゴリーの存在理由があるわけです。パントマイムを演じる人が、ジレンマに陥り、声で説明をしたら終わりなのです。つまり抽象を、逆の、演技という具象で表現する独特な芸術なわけです。純音楽でも生の演奏ならば、そこで演奏者は見えますから具象だと思われるかもしれませんが、その伝えようとしている作品は純粋抽象の世界です。交響曲のようにパントマイム以上に、もっともっと純粋に抽象の作品もあります。シンフォニックコンサートでも普通、見に行く人半分、音楽を聴きに行く人半分、位ですかね。一般にはそういう認識だと思います。
でも本当の意味でそういう純粋音楽を聴くということは、音になったものが作品であって、弾いている姿とか、弾いている人の顔の美醜といったことは無関係なのです。オペラやバレエなどは別ですが。しかし人間は、見えてしまったものに影響を受けないわけにはいきません。ですから純粋に音楽の情報を得ることは殆ど困難といえます。しかしオーディオには映像がありませんから、見たくても何も見えない。ですから100パーセント純粋な抽象の音楽として受け取ることができるわけです。これが、具象に影響されない抽象の真の魅力を教えてくれるのです。
オーディオの長い歴史の中で、そうした、見えないというオーディオのよさが、逆にずいぶんネガティブに捉えられてきました。エジソンは音だけの記録再生装置を発明しましたが、私はこれを怪我の功名だとも言っています。その頃は、映像の記録と音の記録が、バラバラに進行していました。これがもし同期して開発されていたとしたら、私が言っているような、オーディオの持つ魅力、あるいはレコードやCDの魅力にいまだに気が付かなかったかもしれません…。幸か不幸か、この一世紀、音だけが記録されたレコードが存在してきたわけです。そこで発見された魅力がピュアオーディオの神髄といえます。
以下、第3回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)