エジソンの発明が、音だけの記録再生であったことにより、生の音楽鑑賞以上の、純粋な音楽の楽しみを知ることができる世界が創られたわけです。画と音が、その時同時に記録できていたら、ひょっとっしたら、私たちは、抽象による純粋な音楽の魅力に気が付かなかったかもしれません。
勿論、エジソンの発明から1世紀の間に、急にいい音になったのではありません。人は長年にわたり未完成の音を聴いてきました。それは単に不十分で悪い音だったというだけではなく、余計な音まで聴かされてきました。それは雑音です。私たちは、余計な音、つまり雑音の混じるその悪い音の中からでも、聴きたい音を識別して、レコード音楽を芸術として聴いてきた歴史を持っています。これには大変な、集中力がいるし、ある種の才能も必要です。集中力のある人や、才能のある人はノイズの多い悪い音の中から純粋に音楽を聴くことができたのです。ただこれは、全ての人には無理なことかもしれませんが...。ですから、その時代は、限られた人だけが、レコードを立派な音楽芸術として楽しんでいたのです。その後、技術が進歩して、いまでは、かなり実際の音楽演奏に近い、十分な情報量を記録再生できるようになりましたから、本来なら、オーディオの魅力、その抽象の音楽の魅力はもっともっと広く理解され、普及してよいはずでした。
しかし、現在は、残念ながらオーディオというと、ごく当たり前なことか、あるいは、特殊な世界との極端に二分化されているように感じられます。それをもう一度、オーディオという抽象なるが故の魅力を、再びいまの皆さんに伝えていきたいというのが、私の願いであり、ここでのお話しの主眼です。
さて、先ほど不要なノイズの混じった音と、現実に近い情報量豊かな音の対比について話しましたが、誤解していただきたくないのは、音楽という抽象芸術を楽しむ上で、それがたとえ雑音の多い音であっても、雑音のない音であっても、あるいは帯域が狭い音でも、帯域の広い音でも、実は、その本質には大きな違いはないということです。本質的な価値というものは聴き手次第なのだと言うことです。本当は、趣味全般にいえることですが、趣味の対象そのものに意味や価値があるものではなく、それを受け取る人の受け取る感性や精神にこそ意味や価値があるのです。実は、それが、私の一番言いたいことなのです。
昔はノイズと音を識別して聴く能力、またイマジネーションで、悪い音でも、それを補って聴くことが出来るクリエイティブな能力が要求された時代であったわけですが、それから比べると、いまはずいぶん楽になったということではないでしょうか。だから、本来ならば皆さんがもっと、ピュアオーディオは、もっと楽に音楽そのものを楽しむことができるはずのですが、実際の趨勢は全く逆だといえます。つまり、楽になったなことが、逆に価値を見失わせたとも言えるのかもしれません。残念なことです。
少々堅苦しい話になりますが、趣味というものは、強要されるものではなく、自らが好んで選び、楽しむ遊びでありますから、それは本来の人の道なのです。だからこそ、人と、その心のあり方が最も重要なのではないでしょうか。しかし、人は趣味の対象となる物や技術に眼を奪われ、そこに意味と価値を置きたがります。道具や物のほうが、具体的でわかりやすいからでしょう。しかし、趣味を意味のある実りの大きい物にするためには、まず、何故自分がそこに魅力を感じるかを自らに問いつめ、それを納得のいくまで追求する事が必要ではないでしょうか?
よく言われる諺に、「一芸は道に通じる」というものがあります。世界や対象が違っても、その道の専門家同士は意見が通じやすいものです。私が一芸に通じている、と自慢するわけではありませんが、オーディオの世界でも、これを一生通してやってくると、その本質や喜び、あるいは極意と言うものが他の世界と共通することを感じます。例えば料理人やカメラマンなどとも意見が合うことをよく経験します。それは、意味と価値が、対象そのものにあるというよりも、人の中に存在することを物語っているのではないでしょうか? 以前に、AVとピュアオーディオの差について話しましたが、この両者は対象の技術や道具としては似ていますが、その本質や、人がそれを追究する姿勢の方向性や趣味としてのあり方は全く違うと言えるものだと思います。
以下、第4回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)