レコードと対峙して、生き生きとした感動をそこから引き出すことが、オーディオの趣味の極致といえます。その境地に至り、扉を開いた人がオーディオファイルであって欲しいわけです。多分本当に音楽を愛するオーディオファイルはそういう人でしょう。それは、前に申し上げましたが、聴く対象だけに意味があるのではなく、聴く人の心にも意味があるということに通じますね。
一度感動の扉を開けた人は、「こんな世界があったのか」と思います。そして、「オーディオというのはスピーカーによって、再現が大きく違うらしい」ということに思い至ります。さらに「違うスピーカーだったら、さらに深い感動が得られるのではないだろうか」となりますね。それと同時に、聴く姿勢も変わってきます。ガムかみながら、ベチャクチャ話ながらではなく、音楽の感動と向き合うようになる。そうした一連のよい効果が、オーディオを趣味としての深さを実現させるのでしょう。
私は、この連載の5回を通して、私の考えるオーディオの楽しみの本質を語ってまいりました。それは、オーディオが姿、形の見えない抽象の趣味であること。それ故に、聴き手次第で無限に広がる広さと深さ、そして感動が得られるものということに尽きます。ただ、具象である絵とかビデオが抽象性の薄い、趣味になりづらい分野というのではありません。絵は誰でも見ればわかるわけですが、ここで是非付け加えておきたいことがあります。それは絵画を鑑賞することについてです。具象である絵画も、芸術としてみる場合は、一度抽象に変換して見ているということです。絵画を抽象化して受け取るということが鑑賞力につながるわけです。絵画は、表現が固定されていて、時間経過もありませんから、情報として少ないのです。単に眺めるだけなら「それがどうしたの」となりますね。「リアリティだったら写真の方が良い」ともなります。そこで絵画の鑑賞とは何かといいますと、その絵画から、頭の中で、抽象化して、無限の情報に作りかえることでしょう。名画とは、その操作、頭の中で作りかえやすい絵のことですね。いつまで見ていても何の作用も起こらない絵は、確かにただの写真の方がましといえます。
人間のイマジネーションや心というものは本来、抽象的なものです。ですから具象のものであっても、それがなければなりません。具象でも、さらに時間軸を解説したものが、映画とかビジュアルとなるわけです。これはもっと具象ですね。経過まで説明してくれますから、見ているだけで、誰にでもわかります。そんなビジュアルからもさらに、抽象世界をふくらませることができる人がいます。その人は真の映画鑑賞者、ビジュアル鑑賞者といえます。逆に人間の心に、抽象として訴えることができる具象でないと芸術とは呼べないといえます。でも具象であるビジュアルは、表面上は誰が見てもわかりやすいから、いい加減なものも多いことは事実です。そこにいくと音楽は、殆ど抽象です。別嬪さんのアイドルがいますよね。その歌が下手にもかかわらず、ウケるのは、ビジュアルとしての具象だからでしょう。とりあえず「可愛いな」というわけです。音だけ聴いた時どうなのか、その辺を踏まえて考えてみると、オーディオの本質的な魅力が見えてくると思います。
さて次回からは、具体的なピュアオーディオの楽しみについてお話ししていきます。
以下、第6回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)