今回から数回にわたって、私がオーディオの感動と出会った頃のことや、きっかけとなった体験を話していきたいと思います。これはいろいろな場所で、すでに何度も語っていますので、重複があることはお許しください。
私の父は、出版印刷関係の仕事をしていました。家には蓄音器と数10枚のレコードがあり、ピアノがありましたが、音楽的な家庭というほどではなく、ま、当時としては文化的な家庭といえたかもしれません。私は幼稚園の頃から、音楽よりも、機械の方が好きで、蓄音器の方に興味がありました。「中に、こびとがいるんじゃないか」というわけです。当時は、音が出る、音楽が鳴るということがとても不思議なことと思えましたね。
レコードといえば、最初は童謡を聴かせて貰っていましたが、そのうち内緒で、勝手に自分で蓄音機を演奏し始めたわけですが、これが父に知れて、許可なく演奏はできなくなりました。その頃の私は、興味のある機械はすべて、時計でも何でも、分解していましたからね。いずれ蓄音器も壊すに違いないという判断からです。
その頃の童謡は7インチ盤というのでしょうか、小さな盤だったのです。ある時、普通サイズ(12インチ)のSP盤を聴いた時には驚きました。何かおどろおどろしい、訳のわからない音楽が流れてきたわけです。いま思えば、それはシューベルトの「未完成」の冒頭の部分なんですが、とにかく恐ろしかったのを覚えています。それが私の、レコード音楽体験の第一歩でした。世の中では、手巻き式の蓄音器が家庭に入り始め、お金持ちの家には、そろそろ電気式の蓄音器が入り始めた頃、1930年代ですね。とても高級品で、その頃は金持ちのステイタスでした。扇風機もそうでしたが。電蓄はその上を行く高級な家電製品(こんな言葉はありませんでしたが...)でした。
小学校に通う頃には、すっかり音楽ファンになっていました。我が家でも電蓄になっており、シューマンの合唱曲「流浪の民」をよく聴いていたのを覚えています。その後、音楽とオーディオにさらにのめり込むきっかけとなる事件が起こります。それは私が小学6年生の時です。東京は戦火が迫り危険となったので、東京の公立小学校のすべてが閉鎖になり、6年生は、その時点で全員卒業となりました。縁故のある人は縁故を頼り、そうでない人は学校単位で集団疎開をしたわけです。私の場合は縁故疎開で新潟県の佐渡に行くことになりました。佐渡には電気がないと言われ電蓄を持ってゆくこともままならない。もちろん命がけで、できるだけ身軽にということでしょう。疎開によって、音楽と離れることとなったわけです。その時の音楽への飢え、ハングリーさが、その後の自分を決定づけたといえます。
佐渡で聴くことのできた音楽は、民謡と歌謡曲だけでした。歌謡曲といっても、時節柄、普通のものではなく、ほとんどが軍歌です。その前の東京時代はクラシック音楽、特にベートーヴェンを多く聴いていました。根っからの音楽好きで、音楽ならなんでも聞きたいという私は、佐渡では、クラシックが聴けなかったので、民謡や歌謡曲、そして軍歌までも聴いたり歌ったりしたわけです。音とは離れられなかったのですね。この体験があったために、後年、クラシックだけではなく様々な音楽を受け入れられるようになったのだと思います。
佐渡での疎開が、1年半続き、終戦後、東京に帰ってきました。そして電蓄で、レコードを聴いた時の感動たるや、大変なものでした。クラシック音楽に飢えに飢えていたのですから。この時の心のふるえるような感動と、その後の出来事が、オーディオにのめり込む決定的な原点となったのだと思います。しかし、感動的であった反面、そのレコードの音が何か以前と違うことに気がつきました。しかしラジオを聴くと以前と変わりないように感じられました。これはピックアップの故障であると断定し、修理することを決意しました。これが私がオーディオへの興味を持つ決定的な出来事だったのです。
以下、第7回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)