憧れていた電蓄を聴くと、何か音が変でした。もう少しいい音がしたはずと思いました。これはピックアップの故障に違いないと、そのピックアップを、試行錯誤して、以前と同じ音が出るように直しました。それが私のオーディオの原点と言っていいでしょう。
そのころの電蓄は、ラジオと切り離せない存在でした。ソースがとても貴重な時代でしたから、ラジオの音源も重要でした。もちろん戦争中は音楽どころではなく、ニュースの連続でしたが....。勝ったの、轟沈させたの、具合が悪くなってからは、玉砕しただのというものばかりでした。戦争が終わって、私が疎開先から帰ってきた頃は、音楽放送も始まっていました。毎朝、堀口敬三さん(作曲家、作詞家で、音楽之友社の創業者)の解説でレコードが演奏される番組もありました。土曜にはNHKで、日本交響楽団のコンサートが放送される、という時代になり、新聞の番組表を見ながら、生放送を真剣に聴いたものです。いまのように音楽が溢れている時代ではありませんでしたから...。特にクラシック音楽に至っては、巷に流れるようなことはありません。だから音楽ファンは真剣に聴きましたね。レコードを聴くことも、夢のようなものでした。幸い父が、教養主義のようなところがあったのか、結構、いいレコードを持っていましたから、助かりました。ずいぶん楽しみましたね。
ピックアップを修理して、曲がりなりにもいい音がでた喜びは今でも忘れられません。そのうちスピーカーがおかしくなる。今度はそれを修理する。そのころには、ラジオ雑誌も読み始めていて、ラジオのこと、電蓄のことがいろいろわかってきました。そうすると、もっといい音を求めて、よせばいいのに、電蓄の改造が始まったわけです。
父の持っていた電蓄は卓上型です。そのころの卓上型の標準は、だいたい6インチ半のスピーカーが付いていて、それを5極管のシングルアンプで駆動するわけです。ものの本を読んでいく内に、3極管、それもプッシュプルの音がいいと書かれていたりするのを読むと、もういい音への想像が無限に広がリ、矢も盾もなりません。こうして、オーディオへの道を歩み始めたのでした。
その頃、神田駅から神保町へ行く道の両側に、パーツの露店が並んでいました。それらはほとんど旧日本軍の兵隊さんがやっていました。軍隊の備品や米軍の備品などの放出品でしょう。そこで、スイッチやパーツ、真空管を調達してアンプを作る、というのは、その頃の最先端の趣味だったのではないでしょうか。ラジオ少年の憧れでしたね。補足しますと、その頃の秋葉原というのは問屋街で、店頭に「素人お断り」という看板が下がっており、まして、中学生が出入りできる場所ではありませんでした。その露店で調達するにしても、生半可ではできません。雑誌の製作記事を読んで知識を身につけ、構想を立てパーツ表を作るわけです。パーツをひとつずつチェックして、それらが完全に揃ってから作り始めます。
アルミの板を切って曲げてシャーシを作り、真空管のソケット穴を開けるところから始まる製作です。幸いなことに、私はその前に鉄道模型を趣味にしていましたから、比較的楽でした。鉄道模型も今のそれとは違い、真鍮版に展開図面を描き、切り出すわけですから...。後には、シャーシ屋さんに注文もしました。それが、なかなかできてこないために新小岩のシャーシ屋さんの工場まで行くと、私の図面は置いてありましたが、全然できていないのです。注文主が来たから、しょうがないという感じで、その場で作ってもらったものです。夜、できあがったシャーシを持って、真っ暗な江戸川の堤防の道を歩いて帰ってきたのを思い出します。
このように、必要に迫られた修理から始まり、それが、やがて改造から製作に発展して、趣味となったのでした。先ほど説明したように、ラジオとオーディオは一体で、不即不離の時代でしたから、高周波(ラジオ)と低周波(オーディオ)の両方の製作だったわけですが、高校生ぐらいになると、その方向性が別れました。高周波の好きな人はハム(無線)に、低周波の好きな人はアンプやスピーカー(オーディオ)にというわけです。私は音楽が好きで始めたわけですから、当然、オーディオに熱中することとなりました。
以下、第8回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)