稲穂のジャケットの、ワルター指揮ウイーンフィルの「ベートーベン/交響曲第6番・田園」の話をしました。とても感動したSPでした。その後同じ曲を、エーリッヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)でも聴いたところ、驚きました。今から思えば当たり前のことですが、演奏はもちろんのこと、録音の違い、音質の違い、ホールの音の違いがあることに気が付いたわけです。この辺が、レコードの録音についての目覚めでした。
レコードに対して知識がなかったのですね。その頃の自分を振り返れば、今の普通の人の、レコードに対する考え方がわかるような気がします。興味あるのは、まず曲目、そして作曲家と演奏者で、録音や、収録現場、音質について、あまり考えないのが普通でしょう。でも私は思います。それは「映画をタイトルと俳優だけで見るようなものだ」と。こうしてレコードとその録音制作に対する興味が高まったわけです。
私はピアノが大好きで、子供のころは音楽家になりたかった。父はそれには大反対、結局、音楽家になることはあきらめました。諦めた原因はもう一つあります。それは弟(菅野邦彦さん=ジャズピアニスト)でした。彼は父にも、私にも内緒で、家以外の場所で、ピアノの練習を重ねていたわけです。ある時、私が学校から家に帰ると、誰かの弾くピアノが聞こえてきたのです。お客さんかと思って覗くと、なんと! 弟が弾いていたのです。その時、才能というものは、こういうものかと気が付きました。そこで私はピアノを止めて、楽理、作曲を学ぼうと決意しました。そして、就職するならビクターやコロムビア、テレフンケンといったレコード会社にしたいと考えていました。
大学時代は音楽を東京音大(現、芸大)の同声会通信教育で学びました。日曜日には奏楽堂で、城田又兵衛先生や下総皖一先生の直接のレッスンを受けに上野に通いました。その後、好きなオーディオの評論雑誌を仲間と始めました。私の頭の中では、音楽とオーディオの融合した雑誌、電気技術だけではない雑誌として、例を見ないものを創りたいと思っていました。ただ何にも知らない学生でしたから、すぐに印刷屋さん、製版屋さんの支払いに窮するようになりました。そこに救いの手を差しのべてくれたのが、電波新聞社の創業者、平山秀雄さんでした。お金を出してくれ、小さい事務所も用意してくれました。まさに神様のように思えたものでした。しかし、いつの間にか、仲間ともども社員になっていたり、意図していた「オーディオ」という名前が、「電波とオーディオ」という名前になったりで、実際は電波新聞社の仕事になってしまったのでした。全く大人と子供ですから、うまく取り込まれてしまったのでした。記事も音楽とオーディオから、ラジオ、DX、TVなどの記事が入るようになりました。私は大いに怒ったものしたが、よくできた友人がいて、調整してくれていました。私だけだったら雑誌は発刊できなかったでしょう。4〜5年後にはは、遂に誌名が「電波世界」になっていました。今から考えれば当然かも知れません、その頃オーディオなんて言葉は誰も知らないのですからね。ただ音楽誌と技術誌、その両者が融合した誌名は、「オーディオ」しかないと思っていました。「ハイファイ」という案もありましたが、私には当時から、どうも、この言葉はしっくりこなかったのです。
この編集の仕事は3年間続きました。私としては前述の興味と、音楽への憧れからレコード録音制作をしたかったので、雑誌の編集と並行して、当時ラジオ局に勤務していた若林駿介さんなどと人一緒に、「メトロノームレコード」という会社を始めたのです。当時、皇居のお堀端、現在の毎日新聞社がある場所にアメリカの出版社「リーダースダイジェスト」日本支社の2階建ての建物がありましたが、その中に事務所を置き、アメリカのクックとバンガードとレーベル契約を結結びました。同時にアメリカ製の「トランスコ」というラッカーマスター(レコードを作るための元の版)の輸入も計画しました。当時は輸入に関してはドルと円の為替決算は厳しく制限されていたため、当初の輸入はバーターでスタートしました。先方の望むレコードをLP1枚分録音制作して送り、こちらの望む1枚の原盤を送ってもらうという契約です。ところが、最初は雅楽などの録音をして、LP11枚分のマスターを送り、1枚分輸入する権利を得ていたわけですが、そんなに注文は来ません。また、日本のラッカーマスターの質が悪かったので、業界に売り込んだトランスコの方も、当時、レコード会社や放送国で広く使われていた電音(現在のデノンの母体となったブランド)のラッカーと比べると価格が高く、なかなか商売になりませんでした。オーディオビジネスは時期尚早とだったのです。そこで、さすがの私も音楽、オーディオは趣味として、仕事は別にしようと考えるようになり、学生時代からの友人で、日本での事業に成功したアメリカ人の誘いもあって、その貿易会社のマネージャーの職に就いたのです。こうして、私のオーディオ人生は中断することになったのです。現在まで、私が音に関する仕事から離れたのはこの3年間だけです。
以下、第10回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)