音に関するあらゆることを、朝日ソノラマで学び、それが将来に大変役に立ったわけです。同時に社会的なことも学びました。前にも述べましたが、朝日ソノプレス社の上役達は、ほとんど、朝日新聞社の部長クラスの人達でした。今でもよく朝日の記者などと話をするのですが、当時の新聞社の部長クラスには、スケールの大きな人が大勢いて、いまと比べれば、大変なサムライが揃っていたと思います。
例えば、取材費を私が使い切れないで、キチッと清算し、余ったお金を返すと、とても叱られましたものです…。「せっかく俺が苦労して予算を取ってやったのに、なんだ。こんな金、経理の金庫に戻しても何にもならないぞ」という具合です。「おまえには、沢山友達も先輩もいるだろ、そういった人達とドンドンつきあって、おまえの成長の肥しにしろ。どんどん奢ってやれ。おまえが大きく成長すれば、それが会社のためになるんだから。こういう金は有効に使え」という具合でした。
その反面、ある部下がプライベートの領収書を出して精算した時には、烈火の如く怒られてるのを見たこともあります。こんな調子でしたから、お金の使い方を含めて、最初はなにかと大いにとまどいましたが、記者、編集者としてだけではなく、大変な人生勉強になりました。
父の友人の一人に評論家の故大宅壮一さんがいました。大宅さんといえばジャーナリスト、評論家として高名な方でした。戦時中軍のプロパガンダの仕事で、父と一緒に軍属としてジャワにいた関係での友人です。その大宅さんが、私が朝日ソノラマにいることを知り、たまたま朝日新聞に所用があって来られた時に、ソノラマの編集部に訪ねてこられました。「おまえは大宅壮一と知り合いなのか?そうなら、俺は大宅壮一と仕事がしたいから、紹介しろ」と言われ、友人の息子で若造の私が、大宅壮一さんを銀座に誘って奢る、などということが起きえたわけです。いまなら考えられないことです。当時の時代背景も違ったのですが、人がなかなかできないことを勉強させて貰いました。
折りしもステレオという言葉が一般に広まり始めた頃です。松本清張の小説にも「彼女の部屋に入ったら、そこにはステレオがあった・・・」という行りが登場しました。出版部の中には松本清張係りがいるんです。音のことだ、とういうことですぐに私の所に来て、その意味や、後の内容に矛盾がないかを調べていきました。私は2、3日取材を受けたことを覚えています。ステレオという言葉が松本清張の小説に出てくる、といった時代でした。
もう一つ勉強になったことで、忘れられないことは、大阪国際フェスティバルです。これは日本で最古の世界的音楽祭で、当時大変盛んだった音楽祭でした。朝日新聞の社主、村山家が理事として、その中心的活動をしていたものです。多彩なソリスト達や室内楽団、合唱団の他、世界的な高名な指揮者とオーケストラなども招聘しましたが、大阪国際フェスティバルへの出演後、約1月間、西と東の主要都市でコンサートを開催するという、企画を朝日新聞社の企画部が担当していたのですが、私の元の上司が企画部の次長になっていた関係で、ことが音楽関係となると様々な仕事を私に振ってくるわけです。
コンヴィチュニー、イヴァノフ、ヤンソンス、クリュイタンス、モントゥ、ドラティ、ショルティなど当時の名指揮者達、パリ・コンセルバトワール管、コンセルトヘボウ管、ロンドン響、ソヴィエト国立響、ゲバントハウス管などといったオーケストラのコンサートトゥアーのお世話役を毎年やったものです。身近にこのような芸術家とおつきあいできたことは、私にとって大変貴重な体験で会ったことは言うまでもありません。私は非公式でしたが朝日新聞社の企画部員として、これらの仕事をすると同時に朝日ソノラマの取材も兼ねていたのです。朝日ソノラマに関わっていなければ実現できなかった体験でした。
以下、第13回に続く
*次回からは新シリーズ「愛して止まないオーディオブランドと、オーディオ人」をお送り致します。
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)