私が初めてレコード(録音媒体)に親しんだ4〜5歳のころ、出会った蓄音器が日本ビクター製であったということは、私にとって大きな意味を持っています。その蓄音器の型番は「1-90」というもので、これはいまでも部屋に置いてあり、大切に保管しています。鳴らせば鳴りますが、私にとっての記念品として置いています。蓋を開けますと、その裏側にプリントされたビクターの商標、「ヒズ・マスターズ・ボイス」が見えます。蓄音器から流れる、亡き主人の声に聴きいっているという有名なニッパーという名前の犬のマークですね。このマークを、いまでも日本ビクターはブランドマークとして使っているのですが、私にとっても特に思い入れのあるブランドなのです。
レコードと音響機器の両面から音に取り組んでいたメーカーとして、敬愛の年をもって見守ってきたメーカーであるわけですが、ご存知のとおり、いまは激しい再編の波にさらされています。戦後、松下電器産業の傘下に入りましたが、その後も、ビクターブランドは順調に成長してきたわけです。オーディオだけではなく、高柳博士(日本のテレビの父といわれ、VHSの開発でも功労があった高柳健次郎氏)がおられたこともあり、テレビの世界でも世界的な会社になりました。そしてVHSで世界を席巻したのは記憶に新しいでしょう。そしてオーディオでも素晴らしい製品を作り続けてきました。多くのオーディオメーカーが、オーディオから撤退し、スピーカー作りを止めていく中で、唯一今日まで、途切れることなく、いまも高級スピーカーを作り続けている姿勢には、本当に頭が下がります。
話は戻りますが、松下が日本ビクターを傘下に収めた時、大きな実績を持つ、企業風土の違う会社に、松下から社長が来たわけです。その初代の社長が私に話してくれたことがあります。大変印象に残る話なので、ここに書き留めておきます。それはおおむねこういう話でした。「私はビクターを、ミニ松下に作り替えるために来たのではありません。松下ではできないこと実現するために傘下にしたのですから、私は松下の籍を抜いてもらってビクターに来ました」。その北野社長から直接うかがったお話が、その後ずっと心に残っていました。もう50年以上も前のことになります。その後、生え抜きの社長も生まれましたし、ビクターらしい発展をしたわけですが、ここ十数年は、初心とは異なり、この連載で述べてきたブランド本来の特質の維持の難しさや、売買の弊害にさらされることとなったわけです。本来の、音のビクターの部分はごく僅かで、自ら、マルチメディアメーカーを標榜し、体質が変わってしまい経営に破綻を来すようになったのは周知の通りです。
さてこの音の名門、ビクターというブランドはこの後どうなるのか、私は不安と期待を持って見ているわけです。幸いスピーカーシステムの伝統は堅実につながっており、現在でも良い製品を作ろうという努力は貴重です。「小が大を飲む」などと豪語する協業相手も含めて、今後の動向に不安と期待をもっています。個人的なオーディオライフでは、前述の蓄音器、そして次の6半(16cmスピーカー)を使った、2A5シングルの電蓄を使ったのがビクター製品とのお付き合いですが、もちろんその後はソフトとハードの両面で仕事として長いおつきあいをしているわけですが...。
ビクターとは、高柳博士を始め歴代の経営者や事業部長、多くの優れたエンジニアの方々と長年にわたり、お付き合いさせて頂きました。松下から来られた初代の北野社長は大変立派な方でしたが、このところのビクターは、残念ながら彼の意志とは異なり、ミニ松下として時代に適応することしか考えなかったように私の眼には映るのです。日本最古の音のビクターが現代にふさわしい音のメーカーに生まれ変って欲しいものです。
以下、第20回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)