私の現用のJBLシステム、皆さんJBLのエンクロージャーだと思われていますが、実は違うんです。エンクロージャーの天板にはランサーなどでおなじみの大理石が置いてあります。別に真似ようとしたわけではなく、JBLへの憧れがそうさせたわけですね。箱はパイオニアの関連会社だった、パイオニア音響という会社に作ってもらったものです。そして前回お話ししたようにグリルは、これは寸法を合わせてサンスイに特注したものです。
さらに中に入っているウーファーも、常にJBLでとは限りませんでした。最初はJBLのウーファーを入れていたのですが、思ったような結果が出なくて、別の国産ユニットを入れたわけです。それからさまざまなユニットがこのエンクロージャーに出たり入ったりすることになりました。それこそ、ソニーのウーファーULMまで入ったことがあります。そして最終的に、現在のJBL2205Aに落ち着いたわけです。LE15Aも試しましたがうまくいきませんでしたね。実に微妙な音の問題だったと言っていいかもしれませんね。
ですから、JBLやサンスイのシステムに最初から丸ごとどっぷり浸かっていた訳ではないのです。このウーファーシステムは、私のオーディオにおける苦闘の産物と言っていいものです。
もちろん箱でお世話になったパイオニアにも深い思い出があります。朝日ソノラマ時代、編集部に30cm口径の同軸タイプユニットのPAX30が置いてありました。私は当時からオーディオマニアでしたので、パイオニアのブックシェルフスピーカーですとか、MUシリーズのターンテーブルだとかさまざまな製品を使ったことが思い出されますね。また、松本望さん(パイオニアの創業者)には大変お世話になったし、深い縁がありました。
私が20代の頃、当時、音羽(東京都文京区)にあったパイオニアを訪ねましたが、道路に面した引き戸をガラガラと開けると、部屋の奥に社長さんが座っておられるというような小さな会社でした。その裏に工場があり、そこでユニットを作っておられました。当時は福音電気と言っていましたね。パイオニアとはその頃から現在までのお付き合いですから、感慨深いものがあります。その意味で、パイオニアは私のなかでコロムビア、ビクターとはまた違った、オーディオ専業メーカーを代表するブランドと言っていいでしょうね。現在ではTADを一つのブランドとしてオーディオ専門の独立会社を作り、再びオーディオに意欲を燃やしています。ぜひ頑張ってもらいたいものです。パイオニアの原点は何と言おうと、オーディオであり、スピーカーであるわけですから。
「暮しの手帖」という立派な雑誌があります。オーディオの御三家が話題を集め始めた当時、花森安治さんが大橋鎭子さんと一緒に立ち上げ大変話題となった雑誌です。花森さんは当時3大ジャーナリスト言われていました、朝日新聞の扇谷正蔵さんと、文藝春秋の池島信平さん、そして花森さんですね。私が朝日ソノラマで仕事をしていた頃、上司を介して花森さんの知己を得ました。朝日ソノラマの時にもお話ししましたが、朝日新聞というのは大変寛大な会社で、会社の仕事に差し障りのない限り、自分の仕事に役立つことであれば、外の仕事をしてもかまわない、それはゆくゆく会社の財産になる、と考える会社でした。そこで、当時厳格な商品テストをもって絶大な信頼を得て、その扱うジャンルを広げつつあった、「暮しの手帖」と、私の関係が始まりました。そこで出会ったのが「トリオ」(現在のケンウッド)のセパレート型ステレオシステムだったのです。以下次回に詳しくお話しします。
以下、第22回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)