音の評論を始めてからは、様々なメーカーとおつきあいが始まりました。自作時代はよかったのですが、それを遙かにしのぐ製品が数多く登場してきました。その記事を書くためには、公正な立場でなければなりません。しかし一個人としては、公正な立場とは別の次元に“自分の好きな音”というものが厳然とある、ということは、前回でも書いています。「暮しの手帖」は私の中で、朝日ソノラマ時代とその後のフリーの時代をつなぐ架け橋的な存在でした。大変な勉強をさせていただいたわけです。
自宅の再生装置は公正な記事を書く上の大事な基準である、とその頃思い始めました。自分の音を自分の部屋で、誰に聴かれても恥ずかしくないものにしなければならないわけです。それ以前に自分が納得できる音を出すことが大切です。それは、有名で高価な製品を揃えればいいといったイージーなことではありません。本当に自分の好きな音楽が、自分の好きな音で鳴るような、音の判断基準として正しい触角の役目を果たす装置が原点であろうと思い至りました。勿論、何を使うかは重要ではありますが、「自分の音」を出すことがもっと重要なわけです。公平を期すべきだからと、多くのメーカーの製品をまんべんなく使う、などというのはナンセンスです。
ここでは簡単にこんな話をしていますが、実は大変なことなのです。結局、私がそれまで聴き、体験してきた中で、一番私の聴感とマッチする製品を素直に選び、組み合わせることにしましたが、そんな製品がおいそれとは見つかりません。このように、自分の目指している音を自分の部屋で実現することは、大変な苦労でありました。
一方、私は録音の仕事もやっていましたから、ここでもやはり、機材は何を使うかが大きな問題となります。特に私の場合、音の方でも評論をしたり語ったりしているわけですから、そういった人間が録音ではどんな製品を使うかは注目されて当然です。それは、自分の子供と言っていい作品の出来に直接影響するものですし、世界レベルで、普遍性のを持ちながら、個性的で説得力のある音でなければなりません。伊達や酔狂、義理や人情で製品を選ぶわけにはいきませんから、選定にはとても神経を使いました。
当時、私が録音のモニタースピーカーに選んだのは、アルテックの605Bでした。録音機材といえば、当時はアンペックスが業界を席巻していました。マイクはノイマン系が多かったですが、私はアルテックのマイクもよく使っていました。アルテックには、当時、M49、M50という、皆さんあまり使わなかったけれど、大変いいマイクがありました。これは私にとって、ドラムスの音を録音するには絶対必要なマイクでした。
もう一つ、録音のモニター・スピーカーで、思い出深い製品といえば、ダイヤトーンのモニタースピーカー「2S-305」です。ソノラマ時代は殆どこれを録音モニターとして使っていましたし、独立してからも、レンタル・スタジオへ行けば、ほとんどのスタジオには2S-305が置いてありました。自分で機材を持ち込むときは前述のアルテック605Bでしたから、半々で使い分けていたと言えるでしょう。私が特別に縁があって、よく録音に使ったイイノホールには、アルテックの755Eパンケーキが入っていたことを思い出します。私にとって録音用モニターとしてのアルテックとダイヤトーンは、とても大きな存在でした。
そして、この頃、自宅用のスピーカーシステムとして選んだのが、JBLのユニットの組み合わせです。40年後の今でも使っている、375ドライバーに537-500ホーンと075トゥイーターです。しかし、以前お話ししたように、ウーファーは非常に苦労したわけです。今は同じJBLの2205を使っていますが、これに決まるまでには5年ぐらいかかっています。このシステムは最初からマルチアンプシステムでした。したがって、1967〜68年から今日まで、自宅のメインシステムはマルチアンプ駆動で通しています。当時、マルチアンプシステム用のチャンネルデバイダーはコンポーネントとしての既製品がなく、私の場合は、クロスオーバーポイントと遮断特性を決めて、NF回路設計ブロックさんに注文して作ってもらいました。
以下、第25回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)