前回のような経緯がありまして、その後、マッキントッシュ社には毎年行くようになりました。私には大勢の外国の友人がいますが、ゴードン・ガウ氏(以下ゴードン)ほど親密につきあった外国人はいませんね。オーディオは人といいますが、やはり、人と人との縁だったのでしょう。
ブランド名の由来であるフランク・マッキントッシュ氏についてもお話しましょう。彼は、もともと企業家でもあり、FM放送のサブキャリア(副搬送波)を使って宣伝放送を送る、といった仕事をしていた人です。そのシステムを開発・生産するのに技術者が必要になり、雇ったのがゴードンでした。ゴードンは戦中は空軍の通信技師で、戦後は、その技術を生かした仕事をしようと考えていたそうです。マッキントッシュ社はこの2人の出合いでスタートしたのです。
初めは上記のごとくFMのサブキャリア放送の仕事をやっていましたが、そのうち、業界が高性能なアンプを必要としていたことを知り、ゴードンが独創的な回路を考案しました。これを1943年に二人の連名で「マッキントッシュ・サーキット」という回路の特許を出願し、43年に収得したわけです。AB級の増幅器で、高効率で低歪率のアンプリファイアーでした。当時その高出力対低歪率に世間はあっと驚かされたものです。ハイパワーでAクラス並みの低歪みだったからです。しかし、使うバイファイラー巻きの出力トランスにその秘密がありました。これが、現在まで、マッキントッシュの技術のアイデンティティとなったのです。このアンプは、すぐにRCAなどのレコード製造会社が採用するようになったといいます。カッティングマシーンのドライブ・アンプとして使われたようです。
マッキントッシュ社の創立は1946年ですが、このように、マッキントッシュは最初プロ向けの機器製造から身を起こしたわけです。創業当初はワシントンDCに本社がありましたが、その後1949年にはニューヨークに移転し、現在も同社があるニューヨーク州のビンガムトン市に本社工場を構えたわけですね。
その時に、大学出の新卒として入社したのがシドニー・コーダマン氏でした。シドニーは、アメリカの技術系大学の名門、MIT(マサチューセッツ工科大)出の秀才でした。彼がその後、ゴードンの生涯の片腕として、同社の技術の責任者として、ごく最近に至るまで機器の設計も担当していました。現在の社長、チャーリー・ランドール氏は、ゴードンやシドニーの次の世代のエンジニアとして入社した世代です。
私が最初訪ねた時は、1960年代は150人位の会社だったと思いますが、その後、全盛期には300人以上の規模にまで発展しました。
マッキントッシュ社は、やることなすこと極めてユニークな会社でしたね。独自のバイファイラー、トライファイラー・トランスの製造はもちろんのこと、シャーシなども工場で作り塗装もする。あの、有名なガラスのイルミネーション・パネルもですよ。
とにかく、できるものはすべて自社製でしたね。それも、トランスなどは、線材を巻くところから、ケースを作り、それに封入してピッチを詰める作業などの全てをやっていました。日本では60年当時、アメリカはオートメーションの先進国だと思われていましたから、その内製にこだわって手作りするのを見た人々は、その丁寧な作り方に感動しましたね。現在マッキントッシュの工場を見ると、なんと時代遅れの効率が悪い作り方なんだと驚くかもしれませんね。
それだけではありません。オーディオ雑誌などのメディアへの広告は一切掲載しない主義で、宣伝、広告、販促用印刷物は社内に撮影スタジオから印刷工場まで設けて全てを刷っていましたし、余力で他社の印刷物まで作っていましたね。また、全米を3台の計測器と技術者を乗せた「マッキントッシュ・クリニック・カー」が巡回し、顧客を定期的に訪ねて機器のメンテナンスをして回っていたという話も有名です。
当時よりは工場内のラインには自動製造機器も増えましたが、そのラインの横で「これがいいんだ」とトランスのケースに柄杓でピッチを流し込んでいる職人さんが現在もいます。その職人さんは驚くべきことに世襲なんです。初代のお父さんはまだ生きていますが、その息子さんも「高級トランスはこのやり方がベスト」と言いきって、作業をしています。マッキントッシュという会社は、そういう会社です。その徹底した自社生産と手作りへのこだわりが、同社のアイデンティティであり、マッキントッシュらしさ、なのです。
以下、第27回に続く
**編集部のミスにより、記事初出時に一部不備のある内容が掲載されていました。読者のみなさま並びに菅野沖彦氏にお詫びして訂正致します。
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)