デジタルのパッケージメディアには至らぬ点が在った...と前回締めくくりました。音楽を聴いて、文章を読んで、ジャケットを眺め、ものとして大切に扱うという存在感という部分で、その大切な存在感とその意識がどんどん希薄になってきたからです。
音楽というのは全くの抽象であって、時間とともに消えていきます。それをエジソンが記録物として残すことに成功しました。わたしたちはその記録された音楽の時間を、オーディオによって再現しまた聴くことができます。しかし、「抽象的な音楽をパッケージという具象に保存し、また抽象に還元する」というスタイルが、今や形を変え始めてきています。これが、今回のお話の大きなテーマです。
いままでは音楽をレコードやCDなど「もの」として入手してきましたが、最近ではインターネットや携帯電話を通して、「データ」として入手することができるようになりました。しかも、ダウンロードできるデータは最初の頃こそプアなものでしたが、最近ではCDに匹敵する、あるいは、それを上回るクオリティのものさえ出始めました。
今までは音楽が「パッケージメディア」という形あるものとして存在しましたが、再びその形を失い始めているように私は感じています。実在感のある確固とした形がなくなり、無形のものになりつつあるというわけです。そういったデータはハードディスクやメモリーという倉庫みたいなところに蓄えられるわけですが、それはCDのように「何という人の何という曲の演奏はこれですよ」というまとまった形ある物として存在しません。その意味でデータ音楽は透明なメディア、無形なメディアです。
ここが大きなポイントではないでしょうか。「具象」であるパッケージメディアが形を失いはじめ、かわりに「データ」という抽象が広まってきた。つまり、音楽のかたちが「元に戻っている」のではないかと思うのです。
ただし、これは音楽の即時性に戻ったというわけではありません。音楽は一回こっきりな存在で、それが即時性なのです。これはもっともっと複雑な問題を含んでいます。ただ物理的に見て、手で触れられない、形が見えない存在であるという意味では、音楽の元の在り方に似ているとはいえます。
その確実性のなさ、存在感のなさについては、リスナーの反応は悲喜こもごもというか、賛否両論なのではないでしょうか。私は当然ながら、悲しむ側だし、この傾向を否定する側です。私はパッケージメディアは作品だと思います。私は若い頃からレコードの制作を仕事としてきて、現実にある音楽を作品として仕上げることを誇りとしてきました。ですから、制作というのはレコードになって初めて完了すると感じています。オリジナルの録音テープ(アーカイブ)を作るだけでは不十分なのです。
マスター盤を作っただけでもだめです。それをさらに仕上げて、プレスするだけでもだめなのです。やはり、ジャケットに入り、ライナーノーツがつけられ、完全にパッケージされたものができあがってこそ、制作の達成感があるわけです。そこで初めて仕事が終った実感があります。その経験があるから、私の場合は、なおさらデータ音楽に対して否定的なのかも知れません。
ストリーミングでいえば、中身である音楽だけでいいのでしょう。録音さえ終われば、それをネット用にマスタリングしてアップロードすればOKとなります。
しかし、これには制作者から見て大きな危惧があります。制作者のポテンシャルが大きく後退しかねないということです。メディアが透明な存在になると、制作者の仕事は、例えば青いインクや黒いインクではなく、軌跡や結果の見えない透明なインクを使って文章を書くようなもの。文芸でたとえれば、書いたものが本にならないわけですからね。そんなもの頼りなくてしょうがない存在でしょう。これは長い間制作に携わった私の正直な嘆きではあります。
以下、第37回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)