世の中に音楽が溢れ、それをお手軽に楽しめる時代になりました。そこで忘れてはいけないのは、音楽には「簡単に楽しめるBGM的な音楽」と「真摯にその深淵と対峙する芸術音楽」というものがあるということです。
一言で「音楽」とか「音楽ファン」と括りがちですが、その中には様々な志向があるわけです。生活の伴奏的に楽しむことと、芸術の奥深さを聴きたいことを一緒くたに考えてオーディオを語ってはいけないのではないでしょうか。
芸術音楽と、本欄のテーマであるハイエンドオーディオ/ピュアオーディオというのは大変関わりの深いものです。音楽ジャンルはどうであれ、芸術音楽の深みのある世界があればこそ、こだわりのオーディオ機器というものが必要になるわけです。たとえば、音楽がただ聴き流して楽しむだけの、生活の伴奏程度のものであれば、ハイエンドオーディオやピュアオーディオは必要ないし、私自身もオーディオにこだわりを持つことはなかったでしょう。
軽い娯楽程度の音楽を、それなりに聴きたいというのなら、オーディオもは手軽なものでいいでしょう。ですから私はiPodを否定しません。私の車にはiPod搭載のカーオーディオが装着されていますが、クルマの中で聴くぶんには十分なクオリティがあり、不満はありません。
しかし、そのオーディオでマーラーやブルックナーを聴こうとは思いません。
肝腎なのは、芸術的な音楽を認め、それをちゃんと再生しようという価値観を持つか持たないかです。そういった価値観がない人にとっては、ハイエンドオーディオの世界は整合性がなく理解できない世界で、何十万円もするアンプや何百万円するスピーカーの存在は全くナンセンス、ということになります。
前回まで、オーディオのパッケージメディアが衰退し、形の見えない世界に入ってきたというテーマでお話をしました。そして重ねて申し上げますが、ハイエンドオーディオやピュアオーディオにとっては、モノとしての存在感が大変重要だと改めて考えざるをえないのです。
たとえば1980年代から90年代あたりには「本や雑誌は電子メディアに取って代わられる」としきりに喧伝されました。「すぐにも無くなる」とか、「電子ブックに新潮文庫が全部入れられる」とか正気で言われていました。確かに携帯で読める文庫本も登場していますし、このPhile-webのように、雑誌的な部分を受け継ぎながら速報性を加えるというWEBメディアも発展しました。これは新しい世界が増えたということで、本や雑誌に取って代わったと言うことではありません。すべてが電子メディアに置き換わったのではありません。
週刊誌の連載小説程度なら電子メディアで良いかもしれませんが、トルストイの「戦争と平和」を全編読む気になると、携帯版があるとしても、それで読むかどうか……。
現に本はまだあるし、雑誌も存在するではないですか。この存在自体が証明です。活字と同じく音楽やオーディオに於いても、モノとしての魅力を持ったメディアや機器は消えてしまうことはないでしょう。そして、無くすべきではなく、愛好者たちで、その存在を支えていかなくてはならない、と私は考えます。
以下、第39回に続く
(菅野沖彦・談 / 聞き手・ピュアオーディオ本部・岩出和美)
(撮影・奥富信吾)