【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち − 第7回:日野皓正さんが語る「ピットイン」の真の姿<後編>
今回は特別ゲストとして、ピットインの開店直後からステージに立ち、今なお精力的に演奏活動を行うジャズ界の大物トランペッター、日野皓正さんに登場していただき、佐藤良武さんとの対談形式で、ピットインとの深い関わりと思い出を語ってもらおう(前編はこちら)。
エレクトリック化したマイルスに影響され、再び渡米
『シティ・コネクション』のヒットで軌道にのった
帰国してから別人のように変わりヒノテル・ブームを自ら否定
佐藤良武(以下佐藤):日野さん、69年にアメリカに渡ってしばらく向こうにいてから日本に戻ってきた。なんだか別人のように変わりましたよね。それまでは、七三に分けてビシッと黒いスーツのアイビーだった。それが突然、ラヴ・アンド・ピースですからね。まあ、時代も時代だったけど。
日野皓正(以下日野):ジミ・ヘンドリックスみたいな恰好になってね。
佐藤:びっくりした。音楽もフリーだし。渡米前は、ファッション雑誌やコマーシャルにも登場して、まさにヒノテル・ブームが起きていた。ところが「自分の音楽だけを聴いてくれる客だけでいい。スタイルしか見ていない客は要らない」って宣言していたのは憶えています。
日野:なにか取材があると「日野さん、レイバンかけてください」って必ず言われたんだよ。見かけは関係ないのに。もう本当にイヤになっちゃって。
佐藤:それまでの自分を否定しちゃった。また、やりたい音楽を見つけ出したということでもあると思うけどね。
日野:やっぱりマイルスの影響は大きかった。向こうで彼のステージを見て余計にね。大阪万博のジャズ・フェスティバルに自分のバンドで出演したんだけど、もろにマイルスがやっていたエレクトリック・バンド風だった。ダニエル・ユメールやヨーロッパのジャズメンもそのフェスに参加していて、彼らに「ヒノはマイルスの真似だな。もう最悪」とか言われたなあ(笑)。本当にそうなんだけどね。
佐藤:その頃から日野さんは、だんだんと日本のミュージシャンとやらなくなって、脱東京・脱日本を図り始めましたよね。最初は沼津に移り住んで、75年には渡米しちゃった。
日野:アメリカでは、仕事があってもギャラが安いから食っていけなかった。ギル・エバンスのビッグバンドで3ステージ出ても15ドル。その程度ですよ。ジャッキー・マクリーンのバンドにすぐ入れてもらえて、1日60ドル。それが2週間続くけど、いつもそんな仕事があるわけじゃない。お米も買えない時もあった。
演奏ばかりではなく、どんなものでもデジタル的に割り切れない
やっぱり僕はアナログ人間。
だからこそ果てしなく挑戦していく
日本にはよく帰って来ていて、
77年の「六本木ピットイン」のオープン当初にも出演した
佐藤:私が77年に「六本木ピットイン」をオープンした当初、日野さんに出てもらっているんですよ。
日野:よく日本には帰って来ていましたね。プロモーターにギャラの前借りをしていたから。日本だと食えるんですよ。それで79年にサントリーのCMに起用されたのと同時に『シティ・コネクション』がヒットしてやっと、軌道にのった。
佐藤:また日野さんのブームが訪れた。
日野:僕はそういうラッキーな星の下に生まれているのかな。なんとかなっちゃうんですね。
佐藤:あの頃「六本木ピットイン」も最初はジャズをやっていたけれど、うまくいかなくて苦労しました。でもフュージョンと一緒に盛り上がったわけですね。その部分は日野さんとかなり共通しているところがあるかもしれない。
日野:「六本木ピットイン」は、ジャズ専門ではないから、いろいろなことができたね。最後の方は、ラテン・ジャズもやった。
佐藤:吉田憲司さんが仕切っていたハバタンパですね。
日野:そう。メインソリストをやらせてもらった。
佐藤:ハバタンパは、当時のラテン音楽の人材が集結して、実力者が育っていったバンドですよね。
日野:でもね、僕は根っこのところでラテンで育っていないから、やっぱりジャズに戻っちゃった。ジャズとラテンはソロを演奏する上で、自由さがちょっと違うんだよね。
佐藤:まあ、でも日野さんは探求心が強いというか、ひとつのところに止まっていないですよね。何をやるにしても全身全霊で挑戦する。それは演奏だけではなく、ゴルフでもスキーでも絵画でもアグレッシヴ。そういう意味で、尊敬していますよ。
日野:星座がサソリ座だから、革命・改革が大好きなんだよ。
佐藤:「これで良しと思ったらおしまい」という哲学を持っていますよね。
日野:デジタル的に割り切ることができない。やっぱりアナログな人間なんだろうね。果てしなく挑戦していく。
中学生の和丸に沖縄で出会いそのハングリーな目を見て起用
次世代を担って欲しい逸材
佐藤:そういえば去年の春、バンドのドラマーを和丸君に替えたのも挑戦ですね。
日野:挑戦というか、これはもう賭けだよ。だって中学を卒業したばかりなんだから。でも人並み外れた天才だと見込んだから、ものになるとは思っていたけど。
佐藤:心配じゃなかったですか。
日野:最初はね。でもあいつは、自分なりにジャズの奏法を編み出すことができると思っているんだ。だからまわりがいろいろ教えちゃだめ。一定の型にはまっちゃうからね。なんにも言わないで黙っているようにしている。さすがに限度を超えたら忠告するつもりだけど、まだそういうことがないね。ちょっとジャズじゃないんだよなと思うこともあるんだけど、感性がすごいからできちゃうんだよね。だからこのまま放っておいて、自分のスタイルを作って欲しいと願っている。
佐藤:和丸君とはどうやって知り合ったんですか。
日野:ある人から「日野さんに会わせたい人が沖縄にいる」と聞いていて、那覇に仕事で行った時、紹介してもらった。コンサートが始まる前に楽屋にお父さんとやって来て、「息子にこれ以上、どうやってドラムを教えていいのかわからない」と言うんだよ。それで、「中学を出たらプロになりなさい。高校に行ったら絶対だめ。落語家が弟子入りして、廊下を雑巾掛けするような修行から始めなさい」と言った。その時、和丸とはいろいろな話をしたね。音楽だけじゃなく、人間のエゴや宗教や宇宙のことまで。それを聞いている時の和丸の目がね、とても強いんだよ。貧しい国の子供のように、ハングリーな目をしている。それはちょうど僕たちの子供時分の目と同じだった。
佐藤:その目を見てただ者ではないぞと思った。
日野:そう。それでコンサートの途中で、客席にいる和丸をステージに上げて叩かせた。むちゃくちゃ凄いんだよ。うちのドラマーよりもね。まだ中学2年生だったけどバンドに入れることを決めた。それは自分のためにも、ジャズ界のためにも清水の舞台から飛び降りようと思った。話題を作って仕事をもらおうなんて思ってないんだよ。ジャズ界に新風を吹き込む必要がある。だったら早い段階で決断しようということなんだよね。
佐藤:マイルス・デイヴィスだって、17歳のトニー・ウィリアムスを抜擢しましたからね。
日野:ダイヤモンドの原石を見つけたら自分で磨きたい。人に磨かせたら曇っちゃう可能性だってある。弟(故日野元彦)とは付き合いが長かったから、ドラムを叩くことはできないけど、ドラマーとして音楽の作り方は分かる。多少は教えたけれど、やりすぎると古いタイプのドラマーになってしまう。次の世代を担って欲しいから、野放しにしておきたいなあ。
佐藤:どうも和丸君の話になるとグッと前に出てきましたね。天才は天才を知るという言葉があるけれど、そういうことなんだろうね。
新作を一緒に演ったプーさんとは動物と学者みたいな関係だった
でも世界で一番凄いピアノだと思う
佐藤:先ほどプーさん(菊地雅章)と出会った頃の話が出たけど(前号)、昨年は彼と久しぶりにCDを出しましたね。
日野:一昨年、プーさんが帰国した時、「東京TUC」でデュオをやって、久しぶりにアルバムを作ろうかという話が持ち上がった。それで昨年の6月アメリカに渡って、クインテットで『カウンターカレント』、二人のデュオで『エッジズ』をレコーディングした。
佐藤:どうでしたか。
日野:プーさんは、相変わらず恐いよ。本番中に「違うよ、その音じゃないだろ」っていう意思表示だと思うけど、ガンガンガンと激しくピアノを弾くんだよ。インプロビゼーションとしてね。終わってから「ああ、だめだったかなあ」と思ってしょげていたら、翌日になって「昨日の演奏は良かったね」なんてケロッとしている。こっちの思いこみだったんだけど、彼と僕とではもちろん個性が違うし、そのぶつかり合いが激しいから、同じ感覚でとらえていないんだよね。
佐藤:どういうふうに個性が違うんですか?
日野:僕は自分の人生で、スキーにしてもゴルフにしてもいろいろなことをチャレンジしたいと思っている。音楽以外に遊びの要素が多い。出てきた音に本能で食らいついていくタイプ。プーさんは24時間音楽のことを考えているまじめな芸術家だな。正反対のタイプだね。だからあの人は僕に興味を持つんだろうし、逆に僕もそう。動物と学者みたいな関係なんだよ。だから僕はあの人のことを尊敬しているし、世界中で一番凄いピアノだと思っている。レコーディングでは、前よりもう一段階凄くなっていたような気がした。
佐藤:というと…?
日野:いままでは、プーさんのピアノと合わないような音を僕が出しても、それがうまく調和した。どんな音を出しても恐くなかった。ところが、今回は合わない音は出せなくなった。それは彼がそういう音楽の作り方をするようになったから。どうやってフリーをやるかという理論ができあがったんだね。だからこっちは怖いよ。この音を出していいのかなって絶えず考えていた。
佐藤:最近の若いミュージシャンは個性がないとよく言われるけど、あの人は正反対、個性のかたまりですよね。
日野:そう。共演者のこの音はダメ、あの音はダメと否定するところから始めているので、個性が輝いている。いまのミュージシャンは否定しないからね。すべて受け入れているから。レコーディングが終わって、日本に戻ってから、うちのバンドはたいへん。プーさんとやっていたことを僕が踏襲しようとしているのでね。メンバーは何を言っているか分らない。「もっと空間を空けて人の音を聴け」とか言われてもね(笑)。プーさんとメンバーは宇宙観が違うから無理もないけど。
和丸の加入もありこれからは挑戦
次は新しいサウンドを作り上げたい
佐藤:次はそろそろレギュラー・バンドのアルバムということになりますね。
日野:いまどうするか考えているところ。和丸が入ったからね。トライしたいことがいくつかあるんだけど。
佐藤:それはどういうようなことなんですか?
日野:口ではうまく言えないんだけど、ちょっと聴いただけでは、後戻りをした伝統的なジャズだけど、それがどこか新しいサウンドに聴こえるようにしたいんだけどね。
佐藤:それはとても楽しみですね。期待しています。
インタビュー・文 田中伊佐資
写真 君嶋寛慶
日野皓正さん Terumasa Hino(ジャズ・トランペッター)プロフィール
1942年10月25日東京生まれ。タップダンサー兼トランペッターであった父親より、4歳からタップダンス、9歳からトランペットを学び始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンス・バンドで活動を始める。1964年、白木秀雄クインテットに参加し、65年ベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演し喝采を浴びる。67年、初リーダー・アルバム『アローン・アローン・アンド・アローン』をリリース。69年には『ハイノロジー』をリリース後、マスコミに“ヒノテル・ブーム”と騒がれるほどの絶大な注目を集める。72年、ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演。75年、ニューヨークに渡って居を構え、ジャッキー・マクリーン、ギル・エバンス、ホレス・シルバー、ラリー・コリエルなどと活動を重ねる。
79年に『シティー・コネクション』、81年に『ダブル・レインボー』、とたて続けに大ヒットアルバムをリリースした。その後82年には『ピラミッド』をリリースし、武道館を含む全国ツアーを行う。
89年にはジャズの名門レーベル“ブルー・ノート”と日本人初の契約アーティストとなり、第1弾アルバム『ブルーストラック』は、日本はもとより、アメリカでも大好評を博した。90年以降は自身の夢である「アジアを1つに」という願いを込め、アジア各国を渡り歩き、探し集めたミュージシャンたちと結成した<日野皓正&ASIAN JAZZ ALLSTARS>で、1995〜96年に北米〜アジアツアーを行う。
2000年に、大阪音楽大学短期大学部客員教授に就任(現在に至る)。01年春にはインド、パキスタンにて公演の他、西インド地震災害チャリティコンサート行う。そしてカンボジアでも子供たちのためのチャリティコンサートを行い、6月にアルバム『D・N・A』をリリースし、10月にはそのレコーディング・メンバーにて全国ツアーを行う。このD・N・Aプロジェクトは芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)受賞した。
2004年紫綬褒章を受章。また約20年ぶりに映画音楽を手掛け、(「透光の樹」主演:秋吉久美子、監督:根岸吉太郎)サウンド・トラックは文化庁芸術祭 レコード部門の優秀賞、毎日映画コンクールの音楽賞を受賞。
最新アルバムは菊地雅章(p)との双頭ユニット、日野=菊地クインテット「カウンターカレント」と、菊地とのデュオ・アルバム「エッジズ」。この「エッジズ」は2007年度日本ジャズディスク大賞「銀賞」を受賞した。
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エレクトリック化したマイルスに影響され、再び渡米
『シティ・コネクション』のヒットで軌道にのった
帰国してから別人のように変わりヒノテル・ブームを自ら否定
佐藤良武(以下佐藤):日野さん、69年にアメリカに渡ってしばらく向こうにいてから日本に戻ってきた。なんだか別人のように変わりましたよね。それまでは、七三に分けてビシッと黒いスーツのアイビーだった。それが突然、ラヴ・アンド・ピースですからね。まあ、時代も時代だったけど。
日野皓正(以下日野):ジミ・ヘンドリックスみたいな恰好になってね。
佐藤:びっくりした。音楽もフリーだし。渡米前は、ファッション雑誌やコマーシャルにも登場して、まさにヒノテル・ブームが起きていた。ところが「自分の音楽だけを聴いてくれる客だけでいい。スタイルしか見ていない客は要らない」って宣言していたのは憶えています。
日野:なにか取材があると「日野さん、レイバンかけてください」って必ず言われたんだよ。見かけは関係ないのに。もう本当にイヤになっちゃって。
佐藤:それまでの自分を否定しちゃった。また、やりたい音楽を見つけ出したということでもあると思うけどね。
日野:やっぱりマイルスの影響は大きかった。向こうで彼のステージを見て余計にね。大阪万博のジャズ・フェスティバルに自分のバンドで出演したんだけど、もろにマイルスがやっていたエレクトリック・バンド風だった。ダニエル・ユメールやヨーロッパのジャズメンもそのフェスに参加していて、彼らに「ヒノはマイルスの真似だな。もう最悪」とか言われたなあ(笑)。本当にそうなんだけどね。
佐藤:その頃から日野さんは、だんだんと日本のミュージシャンとやらなくなって、脱東京・脱日本を図り始めましたよね。最初は沼津に移り住んで、75年には渡米しちゃった。
日野:アメリカでは、仕事があってもギャラが安いから食っていけなかった。ギル・エバンスのビッグバンドで3ステージ出ても15ドル。その程度ですよ。ジャッキー・マクリーンのバンドにすぐ入れてもらえて、1日60ドル。それが2週間続くけど、いつもそんな仕事があるわけじゃない。お米も買えない時もあった。
演奏ばかりではなく、どんなものでもデジタル的に割り切れない
やっぱり僕はアナログ人間。
だからこそ果てしなく挑戦していく
日本にはよく帰って来ていて、
77年の「六本木ピットイン」のオープン当初にも出演した
佐藤:私が77年に「六本木ピットイン」をオープンした当初、日野さんに出てもらっているんですよ。
日野:よく日本には帰って来ていましたね。プロモーターにギャラの前借りをしていたから。日本だと食えるんですよ。それで79年にサントリーのCMに起用されたのと同時に『シティ・コネクション』がヒットしてやっと、軌道にのった。
佐藤:また日野さんのブームが訪れた。
日野:僕はそういうラッキーな星の下に生まれているのかな。なんとかなっちゃうんですね。
佐藤:あの頃「六本木ピットイン」も最初はジャズをやっていたけれど、うまくいかなくて苦労しました。でもフュージョンと一緒に盛り上がったわけですね。その部分は日野さんとかなり共通しているところがあるかもしれない。
日野:「六本木ピットイン」は、ジャズ専門ではないから、いろいろなことができたね。最後の方は、ラテン・ジャズもやった。
佐藤:吉田憲司さんが仕切っていたハバタンパですね。
日野:そう。メインソリストをやらせてもらった。
佐藤:ハバタンパは、当時のラテン音楽の人材が集結して、実力者が育っていったバンドですよね。
日野:でもね、僕は根っこのところでラテンで育っていないから、やっぱりジャズに戻っちゃった。ジャズとラテンはソロを演奏する上で、自由さがちょっと違うんだよね。
佐藤:まあ、でも日野さんは探求心が強いというか、ひとつのところに止まっていないですよね。何をやるにしても全身全霊で挑戦する。それは演奏だけではなく、ゴルフでもスキーでも絵画でもアグレッシヴ。そういう意味で、尊敬していますよ。
日野:星座がサソリ座だから、革命・改革が大好きなんだよ。
佐藤:「これで良しと思ったらおしまい」という哲学を持っていますよね。
日野:デジタル的に割り切ることができない。やっぱりアナログな人間なんだろうね。果てしなく挑戦していく。
中学生の和丸に沖縄で出会いそのハングリーな目を見て起用
次世代を担って欲しい逸材
佐藤:そういえば去年の春、バンドのドラマーを和丸君に替えたのも挑戦ですね。
日野:挑戦というか、これはもう賭けだよ。だって中学を卒業したばかりなんだから。でも人並み外れた天才だと見込んだから、ものになるとは思っていたけど。
佐藤:心配じゃなかったですか。
日野:最初はね。でもあいつは、自分なりにジャズの奏法を編み出すことができると思っているんだ。だからまわりがいろいろ教えちゃだめ。一定の型にはまっちゃうからね。なんにも言わないで黙っているようにしている。さすがに限度を超えたら忠告するつもりだけど、まだそういうことがないね。ちょっとジャズじゃないんだよなと思うこともあるんだけど、感性がすごいからできちゃうんだよね。だからこのまま放っておいて、自分のスタイルを作って欲しいと願っている。
佐藤:和丸君とはどうやって知り合ったんですか。
日野:ある人から「日野さんに会わせたい人が沖縄にいる」と聞いていて、那覇に仕事で行った時、紹介してもらった。コンサートが始まる前に楽屋にお父さんとやって来て、「息子にこれ以上、どうやってドラムを教えていいのかわからない」と言うんだよ。それで、「中学を出たらプロになりなさい。高校に行ったら絶対だめ。落語家が弟子入りして、廊下を雑巾掛けするような修行から始めなさい」と言った。その時、和丸とはいろいろな話をしたね。音楽だけじゃなく、人間のエゴや宗教や宇宙のことまで。それを聞いている時の和丸の目がね、とても強いんだよ。貧しい国の子供のように、ハングリーな目をしている。それはちょうど僕たちの子供時分の目と同じだった。
佐藤:その目を見てただ者ではないぞと思った。
日野:そう。それでコンサートの途中で、客席にいる和丸をステージに上げて叩かせた。むちゃくちゃ凄いんだよ。うちのドラマーよりもね。まだ中学2年生だったけどバンドに入れることを決めた。それは自分のためにも、ジャズ界のためにも清水の舞台から飛び降りようと思った。話題を作って仕事をもらおうなんて思ってないんだよ。ジャズ界に新風を吹き込む必要がある。だったら早い段階で決断しようということなんだよね。
佐藤:マイルス・デイヴィスだって、17歳のトニー・ウィリアムスを抜擢しましたからね。
日野:ダイヤモンドの原石を見つけたら自分で磨きたい。人に磨かせたら曇っちゃう可能性だってある。弟(故日野元彦)とは付き合いが長かったから、ドラムを叩くことはできないけど、ドラマーとして音楽の作り方は分かる。多少は教えたけれど、やりすぎると古いタイプのドラマーになってしまう。次の世代を担って欲しいから、野放しにしておきたいなあ。
佐藤:どうも和丸君の話になるとグッと前に出てきましたね。天才は天才を知るという言葉があるけれど、そういうことなんだろうね。
新作を一緒に演ったプーさんとは動物と学者みたいな関係だった
でも世界で一番凄いピアノだと思う
佐藤:先ほどプーさん(菊地雅章)と出会った頃の話が出たけど(前号)、昨年は彼と久しぶりにCDを出しましたね。
日野:一昨年、プーさんが帰国した時、「東京TUC」でデュオをやって、久しぶりにアルバムを作ろうかという話が持ち上がった。それで昨年の6月アメリカに渡って、クインテットで『カウンターカレント』、二人のデュオで『エッジズ』をレコーディングした。
佐藤:どうでしたか。
日野:プーさんは、相変わらず恐いよ。本番中に「違うよ、その音じゃないだろ」っていう意思表示だと思うけど、ガンガンガンと激しくピアノを弾くんだよ。インプロビゼーションとしてね。終わってから「ああ、だめだったかなあ」と思ってしょげていたら、翌日になって「昨日の演奏は良かったね」なんてケロッとしている。こっちの思いこみだったんだけど、彼と僕とではもちろん個性が違うし、そのぶつかり合いが激しいから、同じ感覚でとらえていないんだよね。
佐藤:どういうふうに個性が違うんですか?
日野:僕は自分の人生で、スキーにしてもゴルフにしてもいろいろなことをチャレンジしたいと思っている。音楽以外に遊びの要素が多い。出てきた音に本能で食らいついていくタイプ。プーさんは24時間音楽のことを考えているまじめな芸術家だな。正反対のタイプだね。だからあの人は僕に興味を持つんだろうし、逆に僕もそう。動物と学者みたいな関係なんだよ。だから僕はあの人のことを尊敬しているし、世界中で一番凄いピアノだと思っている。レコーディングでは、前よりもう一段階凄くなっていたような気がした。
佐藤:というと…?
日野:いままでは、プーさんのピアノと合わないような音を僕が出しても、それがうまく調和した。どんな音を出しても恐くなかった。ところが、今回は合わない音は出せなくなった。それは彼がそういう音楽の作り方をするようになったから。どうやってフリーをやるかという理論ができあがったんだね。だからこっちは怖いよ。この音を出していいのかなって絶えず考えていた。
佐藤:最近の若いミュージシャンは個性がないとよく言われるけど、あの人は正反対、個性のかたまりですよね。
日野:そう。共演者のこの音はダメ、あの音はダメと否定するところから始めているので、個性が輝いている。いまのミュージシャンは否定しないからね。すべて受け入れているから。レコーディングが終わって、日本に戻ってから、うちのバンドはたいへん。プーさんとやっていたことを僕が踏襲しようとしているのでね。メンバーは何を言っているか分らない。「もっと空間を空けて人の音を聴け」とか言われてもね(笑)。プーさんとメンバーは宇宙観が違うから無理もないけど。
和丸の加入もありこれからは挑戦
次は新しいサウンドを作り上げたい
佐藤:次はそろそろレギュラー・バンドのアルバムということになりますね。
日野:いまどうするか考えているところ。和丸が入ったからね。トライしたいことがいくつかあるんだけど。
佐藤:それはどういうようなことなんですか?
日野:口ではうまく言えないんだけど、ちょっと聴いただけでは、後戻りをした伝統的なジャズだけど、それがどこか新しいサウンドに聴こえるようにしたいんだけどね。
佐藤:それはとても楽しみですね。期待しています。
インタビュー・文 田中伊佐資
写真 君嶋寛慶
日野皓正さん Terumasa Hino(ジャズ・トランペッター)プロフィール
1942年10月25日東京生まれ。タップダンサー兼トランペッターであった父親より、4歳からタップダンス、9歳からトランペットを学び始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンス・バンドで活動を始める。1964年、白木秀雄クインテットに参加し、65年ベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演し喝采を浴びる。67年、初リーダー・アルバム『アローン・アローン・アンド・アローン』をリリース。69年には『ハイノロジー』をリリース後、マスコミに“ヒノテル・ブーム”と騒がれるほどの絶大な注目を集める。72年、ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演。75年、ニューヨークに渡って居を構え、ジャッキー・マクリーン、ギル・エバンス、ホレス・シルバー、ラリー・コリエルなどと活動を重ねる。
79年に『シティー・コネクション』、81年に『ダブル・レインボー』、とたて続けに大ヒットアルバムをリリースした。その後82年には『ピラミッド』をリリースし、武道館を含む全国ツアーを行う。
89年にはジャズの名門レーベル“ブルー・ノート”と日本人初の契約アーティストとなり、第1弾アルバム『ブルーストラック』は、日本はもとより、アメリカでも大好評を博した。90年以降は自身の夢である「アジアを1つに」という願いを込め、アジア各国を渡り歩き、探し集めたミュージシャンたちと結成した<日野皓正&ASIAN JAZZ ALLSTARS>で、1995〜96年に北米〜アジアツアーを行う。
2000年に、大阪音楽大学短期大学部客員教授に就任(現在に至る)。01年春にはインド、パキスタンにて公演の他、西インド地震災害チャリティコンサート行う。そしてカンボジアでも子供たちのためのチャリティコンサートを行い、6月にアルバム『D・N・A』をリリースし、10月にはそのレコーディング・メンバーにて全国ツアーを行う。このD・N・Aプロジェクトは芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)受賞した。
2004年紫綬褒章を受章。また約20年ぶりに映画音楽を手掛け、(「透光の樹」主演:秋吉久美子、監督:根岸吉太郎)サウンド・トラックは文化庁芸術祭 レコード部門の優秀賞、毎日映画コンクールの音楽賞を受賞。
最新アルバムは菊地雅章(p)との双頭ユニット、日野=菊地クインテット「カウンターカレント」と、菊地とのデュオ・アルバム「エッジズ」。この「エッジズ」は2007年度日本ジャズディスク大賞「銀賞」を受賞した。
本記事は「季刊・analog」にて好評連載中です。
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