哲学者・黒崎政男とオーディオ評論家・山之内 正が語る
【特別対談】ドルビーアトモスで蘇るショルティ《ニーベルングの指環》。奇跡の録音が聴かせる新たな可能性
黒崎×山之内対談 -ワーグナーとの出会い
編集部 前回のジョルディ・サバールに続き、山之内先生と黒崎先生の対談という形で進めたいと思います。今回はショルティの《指環》のドルビーアトモスミックスが配信されたということで、ワーグナーに人生を狂わされた(?)お二人に、最新のワーグナーサウンドを体験いただくとともに、なぜかくも《指環》という作品は時代を超えて愛されるのか、ということを掘り下げていくことができればと思います。
ちなみに担当編集の私は、今回初めて《指環》をちゃんと聴きまして、あまりの壮大な物語世界にびっくり仰天したところです。そんなワーグナー初心者の新鮮な驚きとともにお届けできればと思います。まずはお二人のワーグナーとの出会いについて教えていただけますか?
山之内 私は中学生の時のFM放送が入り口でした。バイロイト音楽祭では毎年《指環》が上演されるのですが、その年のライブを日本では12月の年末最後に集中して放送していたんです。放送がある日は、ずっと午後聴きながらゆっくりと浸っていましたね。
黒崎 そのFM放送は私も聴いていましたよ。だから、バイロイト音楽祭って長いこと冬だと思ってたんです。みかんを食べながらこたつで聴くバイロイト(笑)。だから、実際に上演されるのは真夏だって知った時はショックでしたねぇ。
山之内 それから、1987年にベルリン・ドイツ・オーケストラが日本で初めて4日間通しで《指環》を上演したコンサートも見に行きました。単発ではその前にもあったようですが、4晩すべてというのは初めてのことです。上野の東京文化会館でのコンサートで、すでに社会人でしたが仕事を15時に切り上げて、毎日のように通いました。それはもう圧倒的な体験でしたね。
編集部 黒崎先生はワーグナーが奥様との出会いのきっかけにもなったとか?
黒崎 妻、当時(大学生時代・1970年代)はまだ彼女でしたが、彼女は中学生時代から強烈なワグネリアンだったんです。私はバッハ一筋の人間でしたが、ちょっとずつワーグナーが気になりだしていた時期で、きっかけはクナッパーツブッシュ指揮「ワーグナー:管弦楽曲集」です。
「ワーグナーは管弦楽とか前奏曲とかじゃなくて《指環》が最高。ジークフリートはヴォルフガング・ヴィントガッセンの声がすばらしい!」というのが初めて出会った時の彼女の言葉。それから私もだんだん《指環》の「ラインの黄金」や「神々の黄昏」を歌手を意識して聴くようになりました。
当時の私はクナッパーツブッシュがとても好きでしたが、《指環》のレコードはまだなかったんですね。ところがクナの1950年代末のバイロイト音楽祭の録音が、プライベートLP盤で代々木のレコード屋さんに売られていました。「神々の黄昏」、とても高価で4万円ぐらいでしたが、彼女と半額ずつ出し合って、私がそのLPからカセットにダビングして、レタリングもして渡しました。
山之内 それはまたロマンチックなお話。
黒崎 もちろん私たちも87年のベルリン・ドイツ・オーケストラの公演も全夜いきました。あの頃字幕がなかったのでなかなか大変でしたが(笑)。
ステレオ録音の可能性に挑んだショルティによる《指環》
編集部 今回のテーマは1958年から1962年にかけて収録されたショルティ&ウィーン・フィルの《指環》になりますが、このレコードも当時から聴いていましたか?
山之内 ワーグナーのあの世界をなんとか自宅でも再現できないか、というのが、私がオーディオに関心を持った大きな理由の一つでもあります。ですからいろいろな演奏を聴くわけですが、結局ショルティが一番いいんですよ。ワーグナーの演奏の中で、自分が思い描いていた演奏に一番近いのはショルティでした。
レコード以外にもいろんな映像も見ました。ただ、歌の解釈だったり、テンポだったり、キレの良さだったりを考えると、ショルティがやっぱりすごいんです。ですから、今回のドルビーアトモスミックスもとても楽しみにしておりました。
黒崎 私は最初からショルティってわけではなかったんですよね。先ほども言った通りクナッパーツブッシュが好きで、特にキルステン・フラグスタートがジークリンデをやった録音が素晴らしい。でも、今回のために改めてショルティを自宅で聴き直して、これはすごい!と改めて気づきました。という話を妻に言ったら、「ショルティが最高。最初っからそう言っていたじゃない」って言われましたが(笑)。
編集部 今回はドルビーアトモスミックスがApple mMusicで配信されておりますので、これと、黒崎先生がお持ちの初期盤レコード、最新のSACDを聴き比べしたいと考えております。というのも、このショルティのレコーディングが歴史的偉業と言われる理由の一つに、当時の最新鋭技術だった「ステレオ録音」で録音されている、ということがあるんですよね。
黒崎 デッカの録音チームは、ステレオに大きな可能性を感じたんだと思います。ふたつのスピーカーで立体的なステージングを作り出すこと、そのイリュージョンが、《指環》という物語のイリュージョン性と合致したと言えるのではないかと思います。
山之内 オペラだと、歌手が舞台と同じように移動したりするので、その動きも表現できるのがステレオならではというところもありますね。
編集部 では早速レコードから聴いてみましょう。レコードプレーヤーはLINNの「LP12」、SACDの再生はOPPOの「UDP-205」です。そこから、当代最高峰といえるMARANTZのAVプリ「AV10」、パワーアンプの「AMP10」に入力しています。ドルビーアトモスはApple TVから再生しています。
フロントスピーカーはBowers&Wilkinsで、リア・ハイトチャンネルも入れて5.1.4chで構成されています。まずは物語の一番最初、「ラインの黄金」の冒頭部分から(SACDでは《ラインの黄金》Disc1 Tr.1「ワイアー!ワーガー!波打て、波よ」)。
「ラインの黄金」冒頭部をLP、SACD、ドルビーアトモスで試聴
♪「ラインの黄金」冒頭を初期盤LPと最新のSACDを聴く♪
黒崎 LPはちょっと雑味があるんだけど、豊かな生命力というか、有機的な生き物みたいな豊かさがありますね。SACDはクリアですが、少しスタティックな感じ。
山之内 確かに、SACDはちょっとクリーンな感じがしますが、チェロの動きやヴァイオリンが刻み出すところなど、細かい動きがよく分かります。あと低音のミのフラットの音の安定感は、さすがSACDの方がいい。ただ一方で、レコードは音の太さが魅力でもあります。
編集部 このシーンは、生命の誕生というか、本当に何もない漆黒の深淵から生命が立ち上がる印象を受けます。この漆黒の深さはSACDのほうが暗く深い印象ですね。LPはちょっと薄暗い感じ。では続けてドルビーアトモス聴いてみましょうか。
黒崎 まさか、この冒頭のほんの出だしの箇所で聴き比べることになるなんて思ってなかったんだけど(笑)。
山之内 《指環》はやっぱりこれを聴かないと始まらない。これでいよいよ始まるなって、ワクワク感があります。
編集部 この生命が浮かび上がる瞬間を音で表現する、このワーグナーの偉大さに《指環》初心者の私はどわーんと感激したんです!
♪ドルビーアトモスで聴く♪
黒崎 この再生では、ハイトスピーカー(Bowers&Wilkinsの「M1」)もリアスピーカー(Sonus faber「Concerto Home」)も鳴っているのね? なんだか深さを感じますね。立体的というか、奥まで重なっている音がよく見える感じがします。ライン川の中に入っている感じと言うんでしょうか。
山之内 奥行きが出ていますね。またトランペットが入るところや、ホルンが音を出す瞬間など、アトモスの方がSACDよりよく見えてきます。
黒崎 ちょっとLPもう一回聴き直していいかな。
♪「ラインの黄金」の冒頭を再度LPで聴く♪
黒崎 遠くから、夜明けだ〜って感じがする。素晴らしいですね。
編集部 期待感を煽る感じはレコードに分ありという感じがします。
山之内 セッティングしている時にも感じたのですが、アトモスの場合は長い幕を聴いた後の心地良い疲労感がありますね。あまり緊張せずに聴いていられる。それに対してSACDはテンションがすごく高い。その違いはワーグナーみたいに長い作品では特に重要です。
黒崎 アトモスってもっと人工的かと思ったけど、むしろ自然性の方に発見がありました。
山之内 今回のリマスターはそういう意味で正統派なんです。
編集部 当時、デッカのチームがいちばん新しい技術としてステレオを採用したように、いまもしショルティが生きていたらきっとアトモスで録りたがったのではないかなと思います。
山之内 Blu-rayにもいくつかサラウンドの音源がありますが、ちょっとわざとらしいんですよ。ぐるっとリアにも成分を入れて、囲まれている感じになる。でも実際の劇場の音はそうじゃない。今回のアトモスリマスターはそういうわざとらしいところがなくて、声の余韻を少し残し、金床のシーンなど、ここぞ!というところで全部のチャンネルを使っています。それがびっくりしますね。
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