公開日 2002/09/02 11:13
元気な大賀さん
●元気な大賀さん
去る7月4日、オーディオ協会前会長の中島平太郎さんに感謝する会が行われたが、そこでソニー取締役会議長の大賀典雄さんが出席されスピーチされた。「北京で倒れ、3ヵ月間記憶がありませんでした。漸やく元気になりました」。会場は万雷の拍手である。私も目頭を熱くしながら力一杯の拍手を贈った。
そんな元気な大賀さんに再びお目にかかった。7月9日、新幹線が浜松駅に着き、8号車の降り口へと向かったら9号車から大賀さんが歩いてこられ、ホームへと降り立った。そしてホームを電通の成田会長と談笑しながらしっかりとした足取りで歩かれ、改札から西口の方へと去っていかれた。
この日はヤマハ創業者「川上源一さんのお別れ会」だった。会場は数千人の人々で埋まり、厳粛でありながら明るく朗らかな素晴らしいお別れ会だった。その折、トヨタ自動車会長の豊田章一郎氏の次に献花されたのが大賀さんだった。祭壇へ堂々と歩を進め献花された。
数年前、大賀さんが東京フィルで指揮をされるということでオーチャードホールへ出かけた。小曲が多く、曲間には、身体を指揮台の保護パイプで支えていた。2時間近く立ち通しで全身全霊を使って指揮するということは大変な重労働だと思った。
一昨年の暮、オーチャードホールで「第九」を指揮されるということから、少々前回のことも頭に入れながら会場へと向かった。愈々開演である。大賀さんは颯爽と指揮台へ、そして「第九」が始まった。力強く、繊細で、怒涛のごとく盛り上がっていく。1時間半、大賀さんは休むことなく振り続けて終わった。激しい感動が私の全身にはじけんばかりに溢れた。アンコール曲がなく終わったことがまた感動的だった。そして、大賀さんが全てにおいて完璧であったことも感動そのものだった。
そんな大賀さんが北京で倒れられたのは昨年秋東京フィルを率いての北京公演中のことだった。翌日の朝刊は大賀さん倒れるを一斉に報じた。私ばかりでなく業界全体に衝撃が走った。回復して欲しいという祈りは世界にひろがっていった。
驚いたのは翌日のスケジュールである。北京から東京へ逆出張され、皇居で勲一等瑞宝章の授与式に出席された後、即北京に帰り、夜、また公演する予定だったとのこと。身体に自信を持たれての強行スケジュールだったのかと、私は暗い思いだった。その後の大賀さんの情報を識るすべもなく、また触れることすらも自制して時間だけが流れていったのである。
そんな折の大賀さんの登場である。私ばかりでなく、その場にいた人達すべてが驚きと心からの安堵と祝福の思いでいっぱいだったと思う。それは人々の喜びの笑顔が物語っていた。「ますます元気で、大賀さん」。私は改めて心からの拍手を贈っていた。
※上記「一昨年の暮、オーチャードホール…」の箇所が、9月号のSenka21では「昨年の暮」となっておりました。訂正してお詫びします。
去る7月4日、オーディオ協会前会長の中島平太郎さんに感謝する会が行われたが、そこでソニー取締役会議長の大賀典雄さんが出席されスピーチされた。「北京で倒れ、3ヵ月間記憶がありませんでした。漸やく元気になりました」。会場は万雷の拍手である。私も目頭を熱くしながら力一杯の拍手を贈った。
そんな元気な大賀さんに再びお目にかかった。7月9日、新幹線が浜松駅に着き、8号車の降り口へと向かったら9号車から大賀さんが歩いてこられ、ホームへと降り立った。そしてホームを電通の成田会長と談笑しながらしっかりとした足取りで歩かれ、改札から西口の方へと去っていかれた。
この日はヤマハ創業者「川上源一さんのお別れ会」だった。会場は数千人の人々で埋まり、厳粛でありながら明るく朗らかな素晴らしいお別れ会だった。その折、トヨタ自動車会長の豊田章一郎氏の次に献花されたのが大賀さんだった。祭壇へ堂々と歩を進め献花された。
数年前、大賀さんが東京フィルで指揮をされるということでオーチャードホールへ出かけた。小曲が多く、曲間には、身体を指揮台の保護パイプで支えていた。2時間近く立ち通しで全身全霊を使って指揮するということは大変な重労働だと思った。
一昨年の暮、オーチャードホールで「第九」を指揮されるということから、少々前回のことも頭に入れながら会場へと向かった。愈々開演である。大賀さんは颯爽と指揮台へ、そして「第九」が始まった。力強く、繊細で、怒涛のごとく盛り上がっていく。1時間半、大賀さんは休むことなく振り続けて終わった。激しい感動が私の全身にはじけんばかりに溢れた。アンコール曲がなく終わったことがまた感動的だった。そして、大賀さんが全てにおいて完璧であったことも感動そのものだった。
そんな大賀さんが北京で倒れられたのは昨年秋東京フィルを率いての北京公演中のことだった。翌日の朝刊は大賀さん倒れるを一斉に報じた。私ばかりでなく業界全体に衝撃が走った。回復して欲しいという祈りは世界にひろがっていった。
驚いたのは翌日のスケジュールである。北京から東京へ逆出張され、皇居で勲一等瑞宝章の授与式に出席された後、即北京に帰り、夜、また公演する予定だったとのこと。身体に自信を持たれての強行スケジュールだったのかと、私は暗い思いだった。その後の大賀さんの情報を識るすべもなく、また触れることすらも自制して時間だけが流れていったのである。
そんな折の大賀さんの登場である。私ばかりでなく、その場にいた人達すべてが驚きと心からの安堵と祝福の思いでいっぱいだったと思う。それは人々の喜びの笑顔が物語っていた。「ますます元気で、大賀さん」。私は改めて心からの拍手を贈っていた。
※上記「一昨年の暮、オーチャードホール…」の箇所が、9月号のSenka21では「昨年の暮」となっておりました。訂正してお詫びします。