公開日 2019/02/07 06:00
(少なくとも現時点では)
Netflixの技術力をもってしても、名作映画のアートワークを自動生成すべきではない
編集部:風間雄介
この記事もそうだが、ネットコンテンツにおいて、サムネイルとタイトルは生命線だ。画像1枚と数十文字のテキストだけで、ユーザーはそのコンテンツをタップするかどうかを判断する(そのわりにこの記事のタイトルはおとなしいが)。
どれだけ良いコンテンツであっても、サムネイルやタイトルが良くなかったら、見られる可能性は低くなる。だからサムネイルやタイトルを最適化するのは最重要事項の一つで、ネットメディアがしのぎを削っている分野だ。
当サイトの場合、タイトルはいまだに人間の勘や経験に頼って付けているし、サムネイルも人力で作っている。だが今回紹介するNetflixの場合、技術的に先端をいく会社ということもあり、サムネイルの生成も半自動化することで、クリックレートを上げる取り組みを行っている。
具体的には、Netflixはアートワークを自動的に生成する仕組みを採り入れている。作品中の映像を使って、注目を集めやすいシーン、静止画にした際にバランスの取れた構図などを解析する。そして映像の特徴を手がかりにしてコンテンツの文脈を解析し、それらの構成要素を組み合わせたり、再配置したりして、大量のサムネイルを自動的に作り出している。くわしくはこちらで紹介されている。
一方でNetflixは、ユーザーのプロフィールやふだん見ているコンテンツなどをもとに、ユーザーの属性を1,000以上(2017年時点)のクラスタに分類している。膨大なサムネイルの中から、各クラスタに合わせた最適なものを選んで表示すれば、クリックレートを高められる。
◇
ところで、私の好きな映画の一つに「アメリカン・グラフィティ」がある。ビデオテープから始まり、ディスクメディア、そして配信と、何度も見返してきた。
その「アメリカン・グラフィティ」をNetflixで途中まで見たあと、何気なくNetflixのトップページをスクロールしていたら、これまで見たことのない珍妙な画像が表示された。
おなじみのネオンサインを模したロゴで「アメリカン・グラフィティ」と書かれてはいるが(ただしカタカナ)、そのバックに映っている二人の女性は何だろう、ほとんど記憶がない。若い女性(ダイナーの店員かもしれない)2人がこちらを見つめているが、主要な登場人物ではないことは確かだ。作品の本筋と関係がない。
上で紹介した記事をよく読むと、Netflixのアートワーク生成システムは、作品中のすべての静止画を分析して顔認証を行い、それぞれの人物の重要度などを重み付けし、アートワークに使う人物を決定する。登場人物が少ない作品なら良いが、アメ・グラのように登場人物が多い群像劇の場合、このアルゴリズムでは適正なアートワークを作れなかったようだ。数日間ほっといたら、また違うアートワークを表示してきたが、これまた的外れな内容だった。
Netflixは行動心理学や機械学習などを駆使した技術力を誇示しているが、私からしたら、好きな映画に味噌を付けられた気分になった。今この瞬間も、名作映画の内容とかけ離れたサムネイルを、世界中のユーザーに表示し続けているのだろうと考えると、なおさらだ。
映画にはチラシがあるし、LPやCD、DVD、 BDなどにはジャケットがある。こういった背景から映画の内容とアートワークを一緒に記憶していた時代があったし、今もそういった感覚が、ある程度残っていると考えている。作品の内容とアートが合っていないものもあるが、それはあくまで人間が作り出したものなので、愛嬌が感じられた。妙なアートワークが話題の種になることもあった。
つまるところ私は、一つの作品(あるいは一つのメディア)に一つのアートという「一対一」の関係が好きなのだ。一人一人に全く違うものが表示されるのでは、アートワークについて語り合うこともできないではないか。
とはいえ、そういった感覚や常識を軽々と飛び越え、最適化を進めるNetflixの方法論もわからないではない。
これまでは、パッケージソフトやチラシといった物理メディアへ大量に印刷するため、アートワークをなるべく少ない種類に集約しなければならなかった。つまり「一対一」の関係は、コストの要請からの必然だった。
デジタルの世界にはそういった制約がない。だから自在に変えられる。技術的に可能なのであれば個々にパーソナライズしよう、という発想は理解できる。
だが、最終的に生成されるアートワークの精度は、やはり問題だ。Netflixの技術力をもってしても、「アメリカン・グラフィティ」の主題は何か、どういった点が今も人を惹きつけているのか、作品の時代的な背景はどうか、ジョージ・ルーカスのキャリアの中での位置づけなど、作品にまつわる様々な事項を理解し、総合的に判断してアートワークを作ることは難しい。特に群像劇を一つのアートワークに落とし込むのは困難だろう。これは当面、人間でなければ無理なのではないか。
Netflix自身がお金を出して制作したオリジナル作品で、無数のサムネイルを量産するのは構わない。だが個人的な願いとしては、すでにファンがたくさんいて、作品とアートワークの関係性ができている名作映画のアートを、安易に改変することは控えて欲しい。ソープオペラ的な作品とは分けてもらいたいのだ。そして権利元も、作品を提供する際、アートワークを変えられることについて、もう少し神経を尖らせて欲しい。
ちなみにこのアートワークの改変は、Netflixだけが行っているわけではない。Amazonなどでも、アプリやウェブの縦長画面に、より多くのコンテンツを表示するため、サムネイルを横長にしている。そのサイズに合わせてアートワークの構成要素をバラして、再度組み直している。ただし私が確認した限りでは、元のアートワークの要素を全く無視し、作り替えているものは見当たらなかった。
どれだけ良いコンテンツであっても、サムネイルやタイトルが良くなかったら、見られる可能性は低くなる。だからサムネイルやタイトルを最適化するのは最重要事項の一つで、ネットメディアがしのぎを削っている分野だ。
当サイトの場合、タイトルはいまだに人間の勘や経験に頼って付けているし、サムネイルも人力で作っている。だが今回紹介するNetflixの場合、技術的に先端をいく会社ということもあり、サムネイルの生成も半自動化することで、クリックレートを上げる取り組みを行っている。
具体的には、Netflixはアートワークを自動的に生成する仕組みを採り入れている。作品中の映像を使って、注目を集めやすいシーン、静止画にした際にバランスの取れた構図などを解析する。そして映像の特徴を手がかりにしてコンテンツの文脈を解析し、それらの構成要素を組み合わせたり、再配置したりして、大量のサムネイルを自動的に作り出している。くわしくはこちらで紹介されている。
一方でNetflixは、ユーザーのプロフィールやふだん見ているコンテンツなどをもとに、ユーザーの属性を1,000以上(2017年時点)のクラスタに分類している。膨大なサムネイルの中から、各クラスタに合わせた最適なものを選んで表示すれば、クリックレートを高められる。
ところで、私の好きな映画の一つに「アメリカン・グラフィティ」がある。ビデオテープから始まり、ディスクメディア、そして配信と、何度も見返してきた。
その「アメリカン・グラフィティ」をNetflixで途中まで見たあと、何気なくNetflixのトップページをスクロールしていたら、これまで見たことのない珍妙な画像が表示された。
おなじみのネオンサインを模したロゴで「アメリカン・グラフィティ」と書かれてはいるが(ただしカタカナ)、そのバックに映っている二人の女性は何だろう、ほとんど記憶がない。若い女性(ダイナーの店員かもしれない)2人がこちらを見つめているが、主要な登場人物ではないことは確かだ。作品の本筋と関係がない。
上で紹介した記事をよく読むと、Netflixのアートワーク生成システムは、作品中のすべての静止画を分析して顔認証を行い、それぞれの人物の重要度などを重み付けし、アートワークに使う人物を決定する。登場人物が少ない作品なら良いが、アメ・グラのように登場人物が多い群像劇の場合、このアルゴリズムでは適正なアートワークを作れなかったようだ。数日間ほっといたら、また違うアートワークを表示してきたが、これまた的外れな内容だった。
Netflixは行動心理学や機械学習などを駆使した技術力を誇示しているが、私からしたら、好きな映画に味噌を付けられた気分になった。今この瞬間も、名作映画の内容とかけ離れたサムネイルを、世界中のユーザーに表示し続けているのだろうと考えると、なおさらだ。
映画にはチラシがあるし、LPやCD、DVD、 BDなどにはジャケットがある。こういった背景から映画の内容とアートワークを一緒に記憶していた時代があったし、今もそういった感覚が、ある程度残っていると考えている。作品の内容とアートが合っていないものもあるが、それはあくまで人間が作り出したものなので、愛嬌が感じられた。妙なアートワークが話題の種になることもあった。
つまるところ私は、一つの作品(あるいは一つのメディア)に一つのアートという「一対一」の関係が好きなのだ。一人一人に全く違うものが表示されるのでは、アートワークについて語り合うこともできないではないか。
とはいえ、そういった感覚や常識を軽々と飛び越え、最適化を進めるNetflixの方法論もわからないではない。
これまでは、パッケージソフトやチラシといった物理メディアへ大量に印刷するため、アートワークをなるべく少ない種類に集約しなければならなかった。つまり「一対一」の関係は、コストの要請からの必然だった。
デジタルの世界にはそういった制約がない。だから自在に変えられる。技術的に可能なのであれば個々にパーソナライズしよう、という発想は理解できる。
だが、最終的に生成されるアートワークの精度は、やはり問題だ。Netflixの技術力をもってしても、「アメリカン・グラフィティ」の主題は何か、どういった点が今も人を惹きつけているのか、作品の時代的な背景はどうか、ジョージ・ルーカスのキャリアの中での位置づけなど、作品にまつわる様々な事項を理解し、総合的に判断してアートワークを作ることは難しい。特に群像劇を一つのアートワークに落とし込むのは困難だろう。これは当面、人間でなければ無理なのではないか。
Netflix自身がお金を出して制作したオリジナル作品で、無数のサムネイルを量産するのは構わない。だが個人的な願いとしては、すでにファンがたくさんいて、作品とアートワークの関係性ができている名作映画のアートを、安易に改変することは控えて欲しい。ソープオペラ的な作品とは分けてもらいたいのだ。そして権利元も、作品を提供する際、アートワークを変えられることについて、もう少し神経を尖らせて欲しい。
ちなみにこのアートワークの改変は、Netflixだけが行っているわけではない。Amazonなどでも、アプリやウェブの縦長画面に、より多くのコンテンツを表示するため、サムネイルを横長にしている。そのサイズに合わせてアートワークの構成要素をバラして、再度組み直している。ただし私が確認した限りでは、元のアートワークの要素を全く無視し、作り替えているものは見当たらなかった。